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「科学の人間化」と「釈迦の仏教」の未来

科学するブッダ 犀の角たち 佐々木 閑 著

科学するブッダ 犀の角たちの写真角川ソフィア文庫 800円(税別)

 著者のことを知ったのはNHKの「100分de名著」という番組の「般若心経」の回である。後に「ブッダ 真理の言葉」も解説したと知ってNHKテレビテキストも買い求めて読んだ。どちらも売り切れの書店が多く、探すのに苦労した。テレビ向けということもあるのだろうが、平易な語り口でわかりやすく、特に「般若心経」は今まで知らなかった仏教の側面に感動した。

 今回紹介する本は同じ著者の著書だとは気がつかずに買って読んだ。「科学するブッダ」というタイトルに惹(ひ)かれたのである。

 これまたNHKであるが、「コズミックフロント」だとか「サイエンスZERO」などの科学番組が好きでよく見る。宇宙物理学の話を聞いていると、なんだか仏教の世界に通じるものがあるのではないか、と前から感じていた。「科学するブッダ」にはそんな疑問の解が書かれているのではないか、と期待したのである。

 著者は科学については素人と謙遜しているが、経歴を見ると京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒。現在、花園大学文学部仏教学科教授とある。専門は仏教だろうが、科学への造詣も深いのではないかと推察する。

 本書では、仏教書でありながら3分の2のページを科学史にあてている。特に、物理学、進化論、数学の歴史を概観している。科学の歴史は「科学の人間化」の歴史だったという。

 科学が生まれ育った西欧白人社会はキリスト教の影響を強く受けている。今でもアメリカのキリスト教原理主義者たちが小学校で進化論を教えることに反対していて、実際に進化論を教えない小学校も少なくないというニュースに触れることがある。ガリレオが地動説を説いて宗教裁判にかけられたという話は有名だが、ガリレオやニュートン、アインシュタイン、ダーウインなどの科学のパラダイム(ある時代を牽引するような、規範的考え方)を提唱した人でさえ、完全に神の影響から自由になることは難しかった。そもそも科学は神が創りたもうた美しい世界を裏付けるものだったようなのだ。例えば数学ではパイ(π)やルート(√)でしか表せない無理数(無限小数)は美しくない、あるいは完全でないという理由から認められず、論争の種になっていたという。ダーウインと同時代を生き進化論を議論していたライエルは「人間は特別な存在」と考えていた。神が創った「万物の霊長」である人間を特別視する態度は神を認めていることにほかならない。

 著者が科学との関係で見ているのは「釈迦の仏教」である。ブッダが生きていた時代に布教した大元の仏教だ。本書によると、その基本特性は①超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。②努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。③修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる。というもの。

 つまり、神のような絶対的存在を認めず、因果関係によって世の中を説明し(①)、苦行ではなく瞑想を選び(②)、出家によって集団生活をして、修行に専念するために生産活動はせず、お布施によって生きる(③)ということだろうか。

 特に①の特性は科学に通じるものがありはしないだろうか。ブッダは天才的に優れた人間であったけれども神のような超越者ではない。釈迦の仏教には神秘的な部分はほとんどない。これはもう、宗教ではなく哲学だと思いたくなる。

 ここで、「あれ? 仏教にも阿弥陀や菩薩など神秘的で神的存在がいるのに」と思われるかもしれないが、それは日本に伝わった仏教が釈迦の仏教から変遷を経た大乗仏教だからだという。スリランカや東南アジアに伝わった上座部仏教(小乗仏教)の方が初期の仏教の姿を残しているが、厳密には釈迦の仏教とは違ったものになっているという。

 しかし、著者はどの仏教が優れているといったことは決して言っていない。

 私などは、前半を読んで「だからキリスト教はウソなんだ」とすぐに思ってしまうが、著者はそうした短絡的態度も諌めている。

 釈迦の仏教からは、「鵜呑(うの)みにするな、考えろ」と言われているような気がする。他の宗教が「疑うな、信じろ」と言っているのとは真逆だ。釈迦の仏教は、自分との対話であり、自分を救えるものは自分しかいないと言っているのではないかと思う。

 心穏やかに思索を続けたい。