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少年の成長とともに描くカープ初優勝の奇跡

赤ヘル1975 重松 清 著

赤ヘル1975の写真講談社 1800円(税別)

 広島カープというと、球場で涙を流していた故・筑紫哲也さんの姿が思い出される。多分、カープが最後に優勝した91年の映像ではなかっただろうか。原爆投下、そして敗戦からわずか4年後に創設された市民球団。成績不振で解散の危機にあった51年には、市民が酒樽に募金を集めた「樽募金」で球団を支えたという、そんな姿がジャーナリストとしての筑紫さんの心をつかんでいたのかもしれない。当時、同じニュースキャスターとして人気を二分していた久米宏さんも確かカープファンだった。筑紫さんは大分県日田市の出身で広島の人ではないが、セ・リーグのチームがない九州には意外とカープファンが多いとも聞く。

 1975年というのはカープが初優勝した年だ。球団ができてから26年。それまでの最高の成績は3位。直前の3年間は最下位に低迷していたというのだから、75年はまさに奇跡の年だった。

 その年の5月、中学1年生のマナブが東京から転校してきた。巨人の野球帽をかぶって街を歩いていたことで、同級生のヤスに文句をつけられ、これをきっかけに二人は仲良くなっていく。ヤスは酒屋の子どもで、父親亡き後、家計を支える母と姉を案じている優しい男の子だが、気が強くて生意気なところがある。そして、野球がめっぽううまい。マナブとヤスと同じクラスのユキオは、『赤ヘルニュース』を作って教室に張り出す。人がいいユキオは国語が苦手で、記事は誤字脱字だらけだが、この微笑ましい記事を通してカープ初優勝までの軌跡をたどりながら、少年たちの物語が展開してゆく。

 マナブの父親の勝征さん(マナブはなぜか父親をさん付けで呼ぶ)は、ヤマ師のような人で、いつも怪しい商売に手を出しては失敗して各地を転々としてきた。マナブはその度に、短い時には数か月で転校を余儀なくされた。だから新しい土地に溶け込み、そして、さよならをすることには慣れているはずなのだが、広島という土地は今までとは少し違っていた。

 戦後30年。地方の中核都市として発展した広島の街には、原爆ドーム以外、ほとんど原爆の傷跡を思わせるものはなくなっていた。しかし、マナブたちの親以上の世代の心にはまだ深い傷が残っている。

 「なにもわかっとらへん」と同級生のヤスからも突き放されると、今まで以上に「よそ者」感を感じるマナブ。その言葉は読んでいる私にも突きつけられている言葉のようにも感じた。

 同じ九州の長崎にも原爆が投下されたことから、大分県内の私の小中学校でも平和教育は割と盛んだったと思う。義務教育の間に、長崎と広島の原爆資料館はどちらも訪れている。それでも、長崎や広島の人の気持ちは本当には分からないだろう。想像するしかできない。

 マナブと同じ団地に住むクラスメイトの真理子は平和学習に積極的に参加しない。周囲の雰囲気に屈しない、どこか芯の通った強さを感じさせる彼女の姿に、マナブは興味を覚える。

 同じ団地に住む菊江さんは、父親と二人暮らしのマナブに優しくしてくれた。そのご主人で無口な庄三さんは原爆で心と体に深い傷を負っている。

 どこかほかの子とは違う真理子や菊江さん庄三さんを通して、思春期のマナブの心は少しずつ成長してゆく。

 広島カープの愛され方は無茶苦茶で、時に笑いを誘う。ただ、郷土のチームだから、というだけではなく、そこには人々の悲しみや、怒りや、願いや、祈りなどいろんな気持ちがないまぜになっている。

 1975年当時は、少年時代に戦争を経験した大人が働き盛り、社会の中心を担っており、それだけに社会も平和に敏感で、広島に限らず熱い思いを抱いていたと思う。しかし、戦後70年を過ぎた今、そんな思いもかなり薄れているのではないか。今だからこそ読んで欲しい作品だと思う。