「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(58)

戦前、戦中、戦後の風呂物語

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

昭和10年頃 南千住 トンネル長屋(小松崎茂画)▲昭和10年頃 南千住 トンネル長屋(小松崎茂画)

お風呂の話である。私が生まれた頃の東京下町には、自宅に風呂のある家は本当に少なかった。

「根本さんちにはお風呂があったんだから大したもんよ」

東京大空襲の前、近所に住んでいた電気屋のおばさんと戦後再会した折、しみじみとした口調で、そんな話をしてくれた。私の家は表通りに面した二階家だったが、密集した下町の家屋のなかで、一応一軒家風に狭いながら路地に囲まれて、隣家とは直接接してはいなかった。

裏手へまわると、路地はぐるりと円形状に連なり、その路地に沿って、びっしりと長屋が軒を連ね、中央の小さな空地には共同水道があって、長屋のおばさん達の井戸端会議ならぬ水道端会議場となっていた。

人家は密集していたが、「風呂が無い」ということは当時至極当り前のことだった。

近所に「大黒湯」「住の湯」という風呂屋があって、大半の人はこの二軒の風呂屋へ通っていた。

ところで私の家の風呂場といったって、狭い風呂場に据風呂が置いてあるだけのものだったので、父に連れられて広い銭湯へ行くことも多かった。

一度銭湯で溺れかけたことがあった。深い方の浴槽内の段の上で弟(6歳で夭逝)と遊んでいて、父と若い衆(同居の弟子)は流し場で身体を流していたが、私と弟は足を滑らせてしまい、湯の底へ沈んで溺れてしまった。

早い時間で、他の入浴客がほんのまばらで一瞬のことだったが父と若い衆の狼狽ぶりが幼い日の記憶としてなぜかうっすらと覚えている。

ムコ殿の父は帰ってから祖父にこっぴどく叱られたのはいうまでもない。

私の家はペンキ屋だったが、機械塗専門で軍需産業で景気の良いお得意の工場が数社あり、私は恵まれた幼年時代を送った。

 

昭和10年頃 共同水道(小松崎茂画)▲昭和10年頃 共同水道(小松崎茂画)

私の家の風呂桶は、何処にでもあるような木製の据風呂だったが、どうしても上部の縁の方から傷んで、腐ってくる。

ペンキ屋の祖父は腐らないようにと、据風呂の内側を派手な緑色のペンキで塗ってしまった。

当時は幼い私達兄弟を入れて9人家族だったが祖父母は私を溺愛してくれて、いつも私を一番風呂に入れてくれた。「ひとおつ、ふたあつ…」入浴の時間を声を出して数えあげたが、据風呂の縁に手をかけ首まで湯につかると、濃厚なペンキの匂いでむせかえるようだった。

私の幼時の頃の風呂の思い出は、銭湯での溺れかけたことと、ペンキの匂いで充満した湯気の中にある。余談になるが、祖父は物凄い頑固者だったが町内の人気者でもあった。

戦後になって、印半纏は職人の紋付だと言って、親類の結婚式にその姿で出かけ、周囲を困らせた。戦後(ゴムの質も悪かったが)ゴム長靴にもペンキ。親類が作った自慢の銘木の門柱にも白ペンキ。新築した師の小松崎家のモダンな床柱の銘木にも白ペンキを塗ってしまい、いつしか「塗り魔」という仇名もつけられ、親類みんなからオソレられた。

 

疎開先で震えた屈辱の湯

話は戦時下に遡る。日毎、夜毎の空襲から逃れて、私は母と幼い弟妹の4人で、柏の在にある父の実家に身を寄せることにした。

父の実家は大きな農家で、従兄の中の長兄は応召されていたが、10人もの大家族で、その中へ私達4人が割り込む形になった。

 

子どものころの著者(右)と弟の写真▲子どものころの著者(右)と弟

緊急に、崖に掘った横穴の芋穴だった後の穴を防空壕として用意してくれたが、食事のことですぐトラブルが起こり、私達は食事を別にすることになった。その上、竈(かまど)に使う燃料まで規制された。父方の祖母はやさしい人で人望もあり、部落の誰からも慕われていたが、私達が疎開する少し前の昭和19年6月に病没していた。

警戒警報のサイレンが鳴ると、私は夜具を壕の中の筵(むしろ)の上へ移し、ろうそくの灯で母と弟妹を寝かしつけ、警報解除となると、又母屋のあてがわれた部屋へ夜具を戻すという長男としての責務を果たすのを日課としていた。

つらかった中のひとつが毎夜の入浴だった。父の実家は有名な働き者一家で、農作業で汚れた体で10人もの人が入浴する。

勿体ないと言って据風呂の湯は幾日も入れかえなかった。汚れに汚れきった湯は全体にぬるぬるとしていて、表面には垢がぎっしり層となって浮いていた。表面の汚れを出来るだけすくい出し、母と弟妹を入浴させた。

3人を寝床に入れてから、毎夜終い湯に私は入浴した。

私が入る頃は湯はすっかりさめていた。しかし、燃料が勿体ないと言って追い焚きは固く禁止され、時には白い眼で監視されていることさえあった。私は、湯につかりながら手をのばし、据風呂の蓋を中から閉じて、口の上まで垢の浮いた風呂に浸った。

屈辱感で湯の中でふるえる夜が続いた。

配給受け取りその他で柏の町の中へ出かける日も多かった。そんなある日、「思いきって今日は帰りにお風呂屋さんへ寄っていこうか」という母の提案で、準備をして町へ出かけた。

戦時中で石鹸はひとつきりないし、時間も遅くなっていた。仕方なく私は母達と女湯へ一緒に入ることにした。私はその時国民学校(小学校)5年生だった。夕方の銭湯は芋を洗うような混雑で、私は子供風呂の隅で、小さくなって湯に浸っていた。私の鼻先を前も隠さない「おばさん」達が浴槽の縁をまたいでザブザブと出入りするので、私は湯の中で目をつむり、羞恥に堪えた。

この女湯の一件は、長く私の心に小さな歪みとなって残った。

 

戦後のドラム缶風呂

8月に戦争が終結。3月の東京大空襲で東京の家は罹災していて、帰る家もないので、柏の町なかに木造のアパートを見つけて10月半ばに引っ越した。

夜具を含め一家の全財産はリヤカー一台分だけで、父の実家からは使い古した小さなお櫃(ひつ)を餞別としてもらった。何もない時だったので、そんな物でも助かった。

引っ越したアパートは6畳一間で、台所もトイレも共同だった。風呂は銭湯へ通うことになった。戦いは終わったが、食糧事情などは、戦時中より一層ひどくなった。極限、極貧の毎日が始まった。

 

左から著者の父、弟子2人、祖父の写真▲左から著者の父、弟子2人、祖父

食べるものも、着るものもろくにない中で、昭和21年1月20日、空襲の中から疎開中までひたすら守って来た妹のヤヱ子が、急性肺炎であっけなく「あーちゃん」という一言を残して1歳7か月の小さな命の灯を消してしまった。口惜しくて、悲しくて涙が止まらなかった。お棺も用意出来ない時代、ミカン箱(当時は木箱)に亡骸を納め、浅草橋にあった筈の私の家のお寺も戦災で行方不明だったので、流山・駒木の成顕寺でお経をあげてもらい、特別にお願いして八柱霊園で荼毘に付した。時節柄この妹の写真は一枚も残されていない。

昭和25年、柏中学校近くの建築中で未完成のままの家を買って移り住んだ。母屋はしっかりしていたが、台所は掘っ建て小屋のままだった。程なく父が得意先から空いたドラム缶を譲り受け、東京からリヤカーを自転車へ連結して運んで来た。台所の一隅に囲いを作り、五右衛門風呂にした。

ドラム缶は結構高さがあるので、傍に段を作った。肥っていた母は最初怖がったが、すぐに慣れた。大変だったのは毎日の風呂の水汲みで、井戸から汲みあげた水をドラム缶に運ぶのが私の仕事となった。

昭和25年の柏町明原―まだまだ水道は無かった。銭湯へ通うことが多かったが、この五右衛門風呂も長く使った。家を改築し、タイルの風呂場が出来た時は、本当に嬉しかった。

その後私は家を4軒建てかえている。

妻を癌で早くに失くし、両親と高2、中2の男の子2人を抱え、(娘は妻の在世中に嫁がせることが出来た)以来10年程主夫生活も味わった。

今は、40坪程の家で本に埋もれて一人暮らし。昔を思い出し、バスルームでは入浴の度に感謝で手を合わせている。

 

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