「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(51)

昭和の懐かしい力士と松飛台・松戸飛行場

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

松戸飛行場の写真松戸飛行場の写真▲昭和15年完成した松戸飛行場は民間パイロットの養成施設だったが、戦時下では陸軍の特攻基地や補助航空基地として使われた(2枚とも松戸市提供)

初場所で、大関琴奨菊が賜杯を手にした。日本出身力士の優勝は平成18年一月場所、大関栃東が優勝盃を抱いて以来、10年振りの快挙だった。

場所前にこの優勝を予想した人は角界関係者でも殆んど居なかったという。

幾度も番付の中で山や坂を昇り降りしてやっとつかんだ賜杯の重さは、どんなにか嬉しく両腕に残ったことと思う。

昭和の―というより近世の大横綱双葉山の69連勝の大記録は今もって破られていないが昭和11年春場所6日目に玉錦に敗れた後、七日目に瓊ノ浦(たまのうら)を下して以来、双葉山は、連勝街道を走り続けた。当時は東前頭三枚目だったが、どんどん勝ち進み、昭和13年春場所、横綱に推挙され、13日間全勝。そして、14年春場所を迎え、初日に五ッ嶋、二日目竜王山、三日目に駒ノ里を破って合計69連勝。四日目に対戦したのが初顔合せだった新鋭前頭四枚目の安藝ノ海であった。「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」と騒がれたこの大横綱双葉山の70勝目を阻んだのが、若武者安藝ノ海だった。

終戦直後、その双葉山を破った安藝ノ海一行が、(私の母校でもある)柏町(市)の東葛高校へ巡業で来柏した。一行の中には私の少年時代大好きだった増位山の姿もあった。

現在歌手としても活躍している増位山太志郎の父君のいわば先代の増位山である。身長は力士の中ではそんなに高い方ではなかったが、がっしりした体躯で、当時の私にとって大好きな「お相撲さん」の一人だった。東葛高校の校庭に設けられた仮設の土俵と観客席。夢中で声を出した少年の日がなつかしく思い出された。

 

松戸出身の大関松登

琴奨菊の優勝で、いろいろ相撲に関する思い出が甦った。近頃あまり話題にのぼらないが、松戸市出身では大関松登が居た。

昭和16年一月場所、大山部屋に入門して初土俵を踏むが、入門の時点で30貫に迫る体躯は、すば抜けて目立ち、大山親方は、すごいアンコを掘り出したと評判になった。

初土俵場所は三戦して三敗だったが、徐々に番付を上げ、三段目に進んで満20歳に達した昭和19年、徴兵検査で甲種合格になり応召されて、一時土俵を離れた。

昭和20年11月復員して土俵を踏んだものの、五場所低迷が続いた。

昭和23年、家業の不振を理由に、突如マゲを落として実家へ帰ってしまった。しかし大山親方の声涙ともにくだる説得を受けて、土俵に復帰した。

初金星を羽黒山から挙げたのは昭和27年九月場所で、翌28年一月場所に新三役へ進み、九月場所には関脇に昇進したが、29年1月前頭二枚目に落ち、ここで奮起して11勝4敗、敢闘賞を受賞して、再び関脇に返り咲いた。

仕切って時間一杯になるや、手に唾(つば)を吹きつける独特な土俵態度と、土俵際で一回転して向き直る癖から「マンボの松ちゃん」の愛称で親しまれた。

全盛時、体重は150キロに達し、そのぶちかましは重戦車(タンク)とアダ名されるほどの威力を発揮するようになって、目標の的が大きい横綱の鏡里、吉葉山、千代の山、大関大内山などは格好の得意先であった。

しかし、栃錦、若乃花のような的の小さな技能派力士には通じず苦労した。

「マンボの松ちゃん」を印象づけたのは、29年五月場所だった。前半は不調だったが、後半両手に思いきり唾をつけ突進。千代の山、鏡里の二横綱、大関三根山も破り、6連勝して殊勲賞を受賞した。

関脇の地位にあった30年九月場所では、横綱鏡里と最後まで優勝を争い、千秋楽に若乃花(先代)を太鼓腹に乗せて破り、13勝2敗の好成績で2回目の殊勲賞を受賞。場所後、若乃花と同時に大関に昇進した。

明るい人柄の良さと、底抜けの大食いぶりで人気も高かった「マンボの松ちゃん」も、その後病気や怪我で苦しみ、昭和36年引退し、大山部屋を継承した。

私の母方の叔父が相撲茶屋の株を持っていた関係で角界の何人かの知己も得、「砂かぶり」(土俵下の席)で観戦させてもらったことも2回程有った。相撲見物といえば、あれは昭和という時代が終る頃だったか三井不動産に籍をおく友人のS君から枡席へ招待されたことがあった。同行したT君から、「今日はネモちゃん(当時一部の友人からそう呼ばれていた)に紹介したい面白い女性が居るんだ!」そう告げられた。紹介されたK子さんはその頃相撲記者をしていて、小柄でぴちぴちした美人さんだった。「薩摩オゴジョ」というか九州出身の熱血女性で父君は鹿児島では著名な代議士さんで鳩山一郎のブレーンの一人だったとT君から聞かされた。K子さんは井筒部屋と親しく、紹介された時も「今まで寺尾の腰をもんでいたのよ」と明るい笑顔で話していた。御承知のように枡席へは男性が4人入ると窮屈で足も伸ばせない。

K子さんは、桟敷がすいている時間は、あちこち空いている席を探して観戦し、混んでくる時間になると、裏にさがって部屋でテレビ観戦をするのだと言っていた。しかしこの日の私達の席は極上の席だったので、「私もお邪魔して良いかしら」と言って私達4人の中に割り込んで来た。私が前列に座ってたので、何と私の右腿にまたがるように腰かけてしまった。更に彼女はたいへんな酒豪で私のひざの上でぐいぐいコップ酒を飲み、黄色い声で親しい力士を応援するので、その度に周囲の人の視線が私の席に集中するので恥ずかしくて観戦どころではなくなってしまった。それだけではない。小柄ながら魅力的な彼女のプリプリしたヒップが私の右腿の上でぐりぐりと躍動するので足のしびれは限度を越えるし、土俵に集中するどころではなくなってしまった。寺尾が土俵にあがると、一層声を張り上げて「テラオ〜〜」と叫んで、近くからの声援なので色白な寺尾がぽっと頬を染めて視線を外しながら塩をつけていたのを懐かしく思い出している。

実はこの稿を書くにあたり、古い電話帳を探し出して、思いきって電話をしてみたら、まったく思いがけず本人の元気な声がはね返って来た。突然の電話で彼女も驚いたようだったが、「懐かしい、懐かしい」と喜んでくれて、私も忘れていた昔の話を思い出させてくれた。国技館での初対面のあと、私は彼女と数回逢っているが、20年以上の昔のはなしなのにそのことをすべて覚えていてくれて、電話を切った後、このまさかの巡り合いに、人生って楽しいもんだなあとしみじみとした思いに耽った。

不祥事が続いてこの先大相撲はどうなるかと思ったが先場所は満員御礼の連続だった。琴奨菊の優勝もあって来月の春場所もきっと盛りあがるのではないかと期待している。

 

松戸飛行場に配備された「屠龍」(上)、「飛燕」の絵▲松戸飛行場に配備された「屠龍」(上)、「飛燕」が帝都防空にあたった(小松崎茂画)

帝都防空用陸軍飛行場

ところで話はがらりと変わるが、やがて弥生3月―10日は東京大空襲の劫火の夜。そして11日は未だ傷口も癒えない東日本大震災のあの日。季節は春を迎えるというのに心が痛む思い出の日が続く…。そういえば琴奨菊の所属する佐渡ヶ嶽部屋は松戸市串崎南町にあるが、戦時中この辺りには「松飛台」の名が残る通り、陸軍の飛行場があって、この松戸航空隊は、B29の迎撃に大奮闘した。帝都防空用陸軍飛行場ということで、この飛行場には夜間戦闘機「屠龍」をはじめ「飛燕」「隼」などが配備されて過酷な死闘をくり返し終戦の日を迎えた。

東京大空襲からはすでに71年もの歳月が流れ去っている。東日本大震災からは5年目。まだまだ多くの人が苦しんでいる。

戦災といえば、私が描いた焼け跡に立つ親子の絵はタッチを変えて大小2枚あるが、大きい方は九段下の「昭和館」に展示されることになり、小さい方も作家の早乙女勝元先生が館長をつとめる江東区北砂にある「戦災資料センター」に展示されることになった。

平和の時代が続いて、心から有難いと思っているが、北朝鮮のミサイル発射をはじめ、世界中が良くない方に流れはじめているように思えてならない。取り返しのつかないことが起こらないように。大きな天災が来ないように。近づく春の足音に耳をすましながら、ひたすら祈り続ける毎日である。(本文では親しい塩沢実信先生の近著「昭和平成大相撲名力士100列伝」〈北辰堂刊〉から色々引かせていただいた。ありがとうございました)

 

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