「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(46)

「銀座ショーガール」若山昌子さんとの出会い

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

左から若山昌子さん、筆者、小浜奈々子さんの写真)▲左から若山昌子さん、筆者、小浜奈々子さん

この辺りの桜はとうに散って、もう本物の春の暖かさが続いても良さそうなものなのに花冷えを通りこして肌寒いどころか本当に寒い日や、これが春の嵐というのか強い風雨の日が断続的に続いている。

来客が多く、先日は三人の方が三人ともひどい風邪をひいていて、午後早くから夕刻まで、その三人に囲まれていたら、ついに久々に風邪をもらってしまった。

インフルエンザと診断されて一週間程仕事が手につかなかった。

本紙に連載されたこのシリーズが単行本化されることになり、その校正の多忙な中で風邪に邪魔をされて、ちょっと参ってしまった。

「異能の画家小松崎茂と私」「忘れ得ぬ人びと」「夢見るころを過ぎても」の三部構成になっているが、いざまとめてみると思いの外量が多く、600頁を越す大冊になり、厚みでいうと4センチ程になってしまった。昨年の12月までで一応一区切りさせているのだが、読み返してみると、だらしない私自身の歩みが随所に垣間見られ、チクチク、またズキンズキンと恥ずかしさで胸が痛む。

 

NMHの同窓会で

昨年暮のNMH(日劇ミュージックホール)の同窓会でご一緒だった若山昌子さんから「銀座ショーガール」という本が送られてきた。ダンスの世界などは、およそ縁のないものだったが、私よりほんの僅か若いだけなのに驚くほど若々しく、やはり同時代を生きて来た共通点が多く楽しく読ませていただいた。

 

ジャンピング・ハットの頃の若山さんの写真▲ジャンピング・ハットの頃の若山さん

若山さんは、日劇、新宿コマ、浅草では奥山劇場にも出演したというから、どこかの舞台で拝見しているはずなのに、残念ながら舞台姿は私の記憶の中にはない。「若山昌子とジャンピング・ハット」という名でアクロバチックダンサーチームとして有名だったと聞いた。キャバレー全盛時代の頃で、その道では随分活躍してきたらしい。

銀座に「ショーガール」という店を持ってからの苦労話も、同じ時代を生きたといっても私とは全くジャンルの異なる人生を歩んで来た訳で、電話で話していても昭和から平成へと懸命に生きてきたそのドラマティックな歩みに脱帽した。様々な経験を重ねて、本当に良い歳のとり方をされているなあと感心させられた。一緒に銀座を歩いていて、「ちょっと待って!」と言ってコンビニに駆け込んだと思ったら、スポーツ新聞を手に戻って来た。

相撲が大好きで、その記事を読むためのものだった。チャーミングなお人である。一緒に写っている小浜奈々子さんといい、お二人は仲良し同士らしいが、年を感じさせないオーラを持ち続けているお人である。

昭和24年に封切られ、戦後日本の代表的な青春映画となった今井正監督の「青い山脈」で丸眼鏡をかけた女学生に扮し、とぼけた味で人気を博した若山セツ子さんは昌子さんの従姉とお聞きしている。若山セツ子さんは東宝に一期ニューフェイスとして入社。同期には三船敏郎、伊豆肇、久我美子らがいた。

「青い山脈」はもとより、「銀嶺の果て」とかマキノ正博の「次郎長三国志」シリーズで次郎長(小堀明男)の女房お蝶に扮した若山さんは、私もファンの一人だったが、「銀嶺の果て」を監督した谷口千吉さんと結婚したが、離婚してその後まだ若くして不幸な一生を終えている。昌子さんという知己を得て、そのお人柄に接し、改めてそのショウを見たかったなァと思い機会を逸してしまったことが残念でたまらない。

 

ショーダンスと社交ダンス(若山さんと西松達夫さん)の写真▲ショーダンスと社交ダンス(若山さんと西松達夫さん)

また昭和9年生まれが

同じ世代といえば、「キンキン」こと愛川欽也さんの訃報もショックだった。

愛川さんとは勿論面識はないが、昭和9年生れで私とはまったく同学年という訳で、但し私は10年の早生れ組だったが、「9年会」の長門裕之、坂上二郎、玉置宏さん達が相次いで鬼籍に入り、淋しくてたまらない。

十数年も前の話だが、ドラマの題名は失念してしまったが、「キンキン」扮する主人公の人間像が、私にそっくりということで、数人の友人、知人からその話を聞かされた。

単にドラマの主人公との比較だから、まったくどうということはないのだが、一人二人ではなく数人から言われたので、とても気になっていた。もともとファンだったし、勝手に親近感も抱いていた。

これもこのシリーズで書いたことがあるが、玉置宏さんはその頃毎年、年に一回ゲストを招いて町田市のホールで、なつメロの会を開いていた。

その年のゲストは「九段の母」の塩まさるさん、「フランチェスカの鐘」の二葉あき子さん、「トンコ節」の久保幸江さんの三人だった。ちょうどお盆で、暑いまっ盛り。

親しくしていた塩さんが車の都合がつかないというので、これも親しい知人のSさんの車で、町田市までお送りしたことがあった。

控え室で出番を待つ間、皆さんと談笑したが、玉置さんに、「私も昭和9年組です」と言うと、パイプをくゆらせていた顔が急に和やかになり、「あーそうですか」と言って一層親しい話になった。そのままなら良かったのだが、「10年の早生れですから」と付け足したので、玉置さんは急に表情を変えて、「10年生れは関係ないんです」と強い語調で言い、それからの目線は完全に上目線になり、その豹変ぶりに驚かされた。

 

「朧月夜」筆者画▲「朧月夜」筆者画

9年生まれということにそんなに強いこだわりを持っているんだ―とそれからは話が少しぎくしゃくしてしまった。

現在横浜の神奈川文学館で、「谷崎潤一郎展」が開催されているそうで、谷崎先生が当時熱心に通っていた日劇ミュージックホールでの小浜さんとの写真が色々展示されているそうで、館の方から小浜さんに展示の許可の連絡が入って来たという。「根本センセ、一緒に行って下さる?」と誘われているが、まだ時間がとれるかどうか判らないでいる。

先日別の件でのお誘いもいただいたが、風邪の真っ只中で果たせなかったので今度は何とかご一緒して中華街で食事でもしたいと思っている。

前述した通り、本紙の連載をまとめた本は『忘れ得ぬ人々・思い出の風景』という題名で出版されることになった。表紙の帯には、漫画家のちばてつやさん、初代ウルトラマン・スーツアクターの古谷敏さん、そして小浜奈々子さん、「笑点」で活躍している林家木久扇さんの推せんが一言ずつ写真入りで載っている。図々しく本の宣伝をしてしまったが来月下旬には書店に並ぶので、ぜひ手にとって御覧になっていただけたらと思っている。前述した通り、厚さ4センチもある持ち重りのする本になる予定。私自身その量に驚いている。

京都に住む友人からの花見のお誘いも仕事と風邪で流れてしまった。成田に道場をもつ日本の剣術の流祖である香取神道流の大竹利典先生も高弟の崎本平一郎さんも、お二人そろって、今年は卆寿を迎えた。私はちょうどお二人より10歳若いことになる。三人だけで佐原へ鰻を食べに行って誕生会をやろうということになっていたが、これも流れた。しかし、この方は天候が定まり次第実行することになっている。年のせいで、どうしても外出はおっくうになるので、もっと積極的に外出しようと心掛けてはいるのだが…。

大竹先生の居室には私がプレゼントした「那須与一」の絵と唱歌の「朧月夜」の絵が飾られている。有難いことだと思っている。

このところ、私も童謡、唱歌に疑っていて、毎夜子守歌代わりに聴いているが、今はあまり使われない美しい日本語が沢山出てくるので、一人興奮することが多い。

出版する本の構成と校正で今月号は文章も大いに乱れた。お許しいただきたい。

江戸川の朱桜が

滝のように散った日の

ああ泣きたいような遠い昔よ

飯盛女の貝のような耳   (平野威馬雄)

 

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