「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(28)

昭和ロマン館の誕生と佐藤照雄先生[後]

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

嵐の朝に 佐藤照雄画▲嵐の朝に 佐藤照雄画

昭和ロマン館の設立が決定した時、私は多くの協力者とともに、画壇の一匹狼として活躍している佐藤照雄先生にも力を借りたいと思い、オーナーの浅野工務店会長とともに佐藤家を訪れた。兄弟子の浜田勝己さんに連れられて佐藤先生のアトリエに初めてお伺いしたのは私が高校2年生(昭・26)の頃だった(前号まで)。

「寒いから早く中に入んなさい」と中へ請じ入れられたが、中は狭く、だるまストーブの上の大やかんが沸とうしていて物凄く熱かった。まだ物の無い昭和20年代の半ば、佐藤先生が手作りで作ったアトリエは要するにベニヤ板の大きな箱のようなもので、程なくモデルさんが到着。入口にがっちり施錠してしまったので、赤々と燃えているストーブから、もし出火でもしたら、中の佐藤先生始め案内してくれた勝己ちゃんと私、他にお弟子さん風の人が二人。びっちり一杯の人で「大丈夫だろうか?」一瞬不安が頭を過った。佐藤先生は大きなスケッチブックから一枚を切りとり、画板に貼って鉛筆を添えて私に渡してくれた。他の人達は各々のスペースに座ったが、飛び入りの私には座る場所がない。仕方なくモデルさんに一番近い場所にやっと席を作り、どきどきしながらデッサンを始めた。

何しろ生まれてはじめて見る本物のヌードモデルである。それもほんの一メートルと離れていない台の上に立っているモデルさんを前にして私の頭の中は真っ白になっていた。

皆が描きはじめてしーんと静かなアトリエの中で誰かが小声で私に声をかけているが、無我夢中の私はすぐには気が付かない。それがモデルさんからのものと判っても何を言われているか判らない。やっとモデルさんの足許で沸とうしているやかんの口を反対側に向けてほしいということと判り、私はあわててやかんの位置をなおした。そういえばモデルさんの両足は太ももの上の方まで上気して赤く染まっていた。休憩時間に浴衣を羽織った女性が私の所へ来て「先程はありがとうございました」と礼を言われたが、それがつい先刻まで目の前に立っていたモデルさん当人だと気が付かないほど私の心は宙に舞ったままだった。

後年、柏の豊四季団地の集会所を借りて、毎週土曜日、10年程ヌードクロッキーとデッサン会を続けたが、佐藤先生のアトリエでの経験は、今でも生々しく懐しく思い出すことが出来る。

 

才能を反古にした兄弟子

青春 佐藤照雄画▲昭30・11・21 20歳になった筆者をスケッチ 浜田勝己画

ところで佐藤先生宅へ連れて行ってくれた兄弟子の勝己ちゃんはその後酒に溺れるようになり、あり余る程の才能を持ちながら、20歳過ぎてパッタリ絵を描くのを止めてしまった。

ある正月、新宿牛込署から私の所へ電話が入り、留置している勝己ちゃんを引き取りに来るように連絡が入った。何でも暮に酔って、駐車している車のサイドミラーを壊しながら歩いているところを現行犯逮捕されたそうで、実の兄弟にも相手にされず、私の所へ身許引受人の役がまわって来たのだった。暮から正月を留置場で過した勝己ちゃんは、すっかり衰弱した上、風邪をひいていて、私も持て余して、小松崎先生に頭を下げて、しばらく置いてもらうことにした。しかし1か月程して少し快くなると色々な我が儘を言い出して、小松崎家にも居られなくなり、仕方なく出て行ってもらう羽目になった。前号にも記したが、勝己ちゃんの義兄にあたる俳優の江川宇礼雄さんがわざわざ私の家にまで詫びに来てくれたが、勝己ちゃんはその後しばらく消息を絶ってしまった。

江川宇礼雄―といっても、もう若い世代の人達は御存知ないかもしれない。

江川さんは、明治35年横浜市山下町居留地77番館に生まれた。本名ウレオ。ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた今でいうハーフである。

大正4年神奈川師範付属小学校を成績優等操行劣等で卒業。横浜のフランス系セントジョセフ・カレッジ普通科に入学。

おりしも第一次世界大戦の最中。父が敵国ドイツ人であるとの理由で、大正6年3月放校となり、東京の高輪中学に入り、大正9年に卒業。大活(大正活映株式会社)に入社した。「大活」は横浜市元町裏の外人墓地の下、俗称乞食谷戸(こじきやと)にスタジオを持ち、栗原トーマスを撮影総監督に、谷崎潤一郎を文芸顧問としていた。

谷崎は当時、異国趣味に憧れて住居を横浜本牧のチャブ屋街の一角にかまえ、又不良少年愛好者でもあったので江川さんはたちまち谷崎のお気に入りとなり、谷崎を通して里見ク(とん)、今東光等と親しくなった。里見クの長篇小説「多情仏心」に出てくる混血の不良少年、西山普烈は江川さんをモデルにしたと言われ、昭和9年の阿部豊監督による同名映画化では、江川さん自身、西山に扮して出演した。その後の江川さんは映画俳優として、昭和時代の多くのスクリーンを彩った。

私自身も「熱砂の誓い」や「昨日消えた男」をはじめスクリーンではお馴染みのスターであり、その江川さんが突然訪ねて来たので、大あわてしたのがなつかしく思い出される。

当の勝己ちゃんは、深夜突如私の所へ来るようになり、泥酔してダンプカーでやって来て、しかも無免許という。随分諭したが、「絵なんて女でも出来るような仕事はつまんない」と言って、その後ダンプカーの免許をとり、あり余る才能を反古にしてしまった。

師の小松崎先生も「世話のやける子ほど可愛い」という譬(たとえ)通り、いつも気にしていたが、私の所へ顔を見せていた頃もすでに遠く、数十年噂すら伝わって来ない。

 

昭和ロマン館の休館

佐藤先生の話から、又々大脱線してしまった。色々な事もあったが、「昭和ロマン館」は平成12年7月21日(海の日)に多くの話題を呼んでオープンした。乏しい予算の中で、「昭和の挿絵展」「昭和の絵本展」「小松崎茂とその時代展」「松本かつぢと少女物の世界展」「野口雨情展」…3か月毎の企画展で、私はかなり多忙ながら楽しい刻を過した。ポスターやチラシ等もそれなりに力を入れ、短い期間だったが、よくぞここまでやったものと自画自賛の気持ちも少しはある。

 

戦後上野の地下道で佐藤照雄がスケッチした数万枚の中の1枚▲戦後上野の地下道で佐藤照雄がスケッチした数万枚の中の1枚。一連のスケッチ群は劇団民芸の故滝沢修さんが所有していたという

「野口雨情展」の時は地元のコーラスの人とコラボレーションして、森のホール21の小ホールを借りて、コンサートも行った。

その「昭和ロマン館」が(予期してはいたが)急に個人では運営しきれなくなり、平成15年12月に閉館することになった。急な話で建物をそっくり、地元のコアラテレビに貸す話がまとまったためで、取りあえず展示物は浅野工務店の一室に移すことになった。突然の話にびっくりし、がっかりもしたが、気持ちのどこかでほっとしたところもあった。こうした個人やマニアの人が経営している館は、全国で数えきれないほどあるが、皆四苦八苦しながら運営している。

道楽と言ってしまえばそれまでだが、余程の予算がないと続けられるものではない。

ロマン館の例にしても、建物は立派に出来たので運営は会長がポケットマネーをこれに当てると話していたが、周囲の人からの声では、「これだけの館の運営費だから5億から10億近い資金は用意してあるだろう」という話も伝わり、私は板ばさみで肩をすくめて黙している他なかった。その浅野工務店へ取りあえず移した「ロマン館」だったが、今度は3・11の大地震の余波をうけて老朽化していた建物を建て直すことになり、本紙の戸田氏の紹介で、ちょうど開館した「昭和の杜」へ移すことになった。「昭和ロマン館」は目下休館ということで、オーナーの浅野会長も模索中というのが現状である。短い期間だったとはいえ、楽しい夢を見させていただいた浅野会長には感謝、感謝である。

昭和レトロのあらゆる物を蒐集、展示している「昭和の杜」は今後益々話題を呼ぶのは間違いなく、オーナーの吉岡会長と色々話し合っている。「三丁目の夕日」に貸出した古い車をはじめ昭和レトロの車輌数十台や南極観測船「しらせ」に添乗されていた雪上車、近くは流鉄を走っていた「なのはな号」等々…昭和レトロ博物館としてかなり充実した展示になっている。今月一杯貸出している小松崎作品を展示するコーナーもすでに出来上がっている。
  爽秋の下、ぜひ御遊歩下さいますようお願い申しあげて今月はこの辺で―。

 

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