「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(23)

消えゆく銀座の映画館に想い馳せ

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

左から古谷敏、大瀬康一、筆者、大野しげひさ、樋口尚文(監督)の写真▲左から古谷敏、大瀬康一、筆者、大野しげひさ、樋口尚文(監督)

東京銀座三原橋―と書き始めて、はたと筆が止まってしまった。今の若い世代の人には、三原橋という地名も馴染みが薄く、知らない人も多いのではないかと思ったからである。

古地図を拡げるまでもなく、かっての銀座は川に囲まれた島というか中洲のような場所であった。

昭和30年代まで、銀座は東西南北、川(掘割)に囲まれた島だった。

東は三十間堀川とその先の築地川、西は外濠川、南は汐留川(新橋川)、北は京橋川。現在の銀座からは想像もつかないが、かっての銀座周辺には20いくつかの橋があったという。昭和20年代から30年代にかけて、それらの川や掘割はひとつひとつ埋め立てられてゆき、当然橋は不用になり、数寄屋橋はじめいくつかの橋の名のみが残るだけになった。

新橋、数寄屋橋、京橋…等という名は、誰でも知っているが、それにしても20を越す橋があったということには驚かされる。

川の埋め立てと共に橋はなくなり、それらの橋の多くは、架かっていた場所も、名前さえ忘れ去られてしまった。

いちばん最初に埋め立てられたのが三十間堀川でそこに架かっていたのが三原橋だった。

小林新次郎氏の『銀座風土記』(昭和34年刊)から引かせていただくと、「汐留川から流れた水が、もう、今ではたづねる由もなくなった出雲橋や三原橋をとおって京橋川に合流する運河の河岸通りを、むかしから三十間堀とよんでいた。一丁目から新橋まで、大通りに並行して、堀の幅を三十間としたところからこの名が生れたとつたえられているが、大正十四年の大豪雨では、効果的な排水用運河として、銀座一帯を浸水の危険から守ってくれた。明治の末から大正へかけて、この河岸通りは、きらびやかな銀座にくらべ、まことにひっそりと、しずまりかえった町通りで、ことりと音もしないような格子のはまったしもたやだの、粋な船宿だのがならんでいた(以下略)」―とある。銀座三原通りの入口に建つ「三十間堀の碑」によれば、この三十間堀がすべて埋め立てられたのは昭和27年のことだったとあるが、東京都の資料によれば、昭和24年7月埋め立て竣工とある。

 

最後の上映作品を観に

長い前置きになってしまったが、この三原橋の架かっていたところが地下道のようになっていて晴海通りを地下で横切れるようになっていた。そしてそこには、「銀座シネパトス1・2・3」という3軒の映画館があった。あった―と過去形に記したのはこの映画館、飲食店、床屋、アダルトショップなどがある地下街が防災のため本年3月一杯で閉鎖されることになったと聞いたからである。

 

「豹(ジャガー)の眼」の大瀬康一と近藤圭子の写真▲「豹(ジャガー)の眼」の大瀬康一と近藤圭子(昭34)

「銀座シネパトス1・2・3」は「銀座地球座」「銀座名画座」を改修し、昭和63年リニューアルオープンした。

銀座三越から歌舞伎座方面に進み、昭和通りの少し手前の晴海通りが異様に盛りあがった所があるが、その下にこの地下街はある。

この場所の歴史も知らず、私は何回か映画館にも入ったが、どんな映画だったかは残念ながら全く覚えていない。

映画館が閉館になるので、それを機に、「銀座シネパトス1」のみで上映されるという「インターミッション」という映画が作られた。

初代「ウルトラマン」を演じた古谷敏さんからお誘いがあり、3月17日、久々に地下街への階段を降りた。 映画「インターミッション」は実にユニークですばらしい作品だった。

「とてもいいものを見た。他では味わえない独特の世界だった。物語に組み入れられない断片の集積でありながら、ラジカリズムを感じさせない表現は、遠い願いのように私の中にあった。その実現を目にした思いだった。この映画は断片だからこその数段の深度を手に入れたと思う。でもそれは、大人がひらめきを楽しんでつかんだという印象があり、観客をよく知る人の芸を見る思いだった」。脚本家山田太一さんの讃辞である。

映画監督の大林宣彦さん他大勢の映画監督や脚本家の多くから讃辞が寄せられている。

秋吉久美子扮する映画館の女支配人。客席で様々なスター達が、大体二人一組でほんの短い間色々な会話を交す。ドラマでもなく、さりとてドキュメンタリーでもなく、観終わった後では、やはり見応えのある劇映画を見た思いで、久々にいいものを見せてもらった― お誘いしてくださった古谷敏さんに心から感謝した。

終映後、舞台で監督の樋口尚文さんの司会で本篇で観客として登場した大瀬康一さん、古谷敏さん、大野しげひささんのトークショウもあり、なつかしい顔触れで、これも楽しかった。

監督の樋口さんは、電通クリエイティブディレクターとしてコマーシャルのジャンルで活躍して来た方で劇映画は初めての経験という。前述の大林宣彦監督によれば、「大島渚が亡くなり、樋口尚文が生まれた」とまで書いている。樋口監督は昭和37年の生れというから正に働き盛りといった所で、その才能に脱帽した。

弟の真嗣氏は「ガメラ」等の特撮監督として知られているという話も後日伝え聞いた。

 

説明に困った私の仕事

筆者が初めて描いた「月光仮面」のぬりえ width=▲筆者が初めて描いた「月光仮面」のぬりえ(昭33)

トークショーの3人では古谷さんとは現在親しく交流して居り、この日もそのあと有楽町のニュートーキョーで20人程で盛りあがった。つい先日も私の遊び仲間の食事会にも出席してくれた。古谷さんのことは昨年本紙に掲載させていただいたのでここでは割愛させていただくことにする。

大野しげひささんとは初対面だったが、バイタリティあふるるキャラクターで「びっくり日本新記録」の司会をはじめ数々のテレビ番組や映画にCMにと一世を風靡したので、読者の皆様もなつかしく感じられる方も多いと思う。

この中で一番先輩格の大瀬康一さんは、私にとっても忘れられないお人である。「隠密剣士」の頃、一度撮影現場に同行したことがあるが勿論これは御本人の御存知ない話である。

私は幼い頃から童画家、挿絵画家に憧れ、縁あって小松崎茂先生の内弟子となってこの道に入ったが、昭和33年2月24日ブラウン管(古いなァ)に颯爽と登場した「月光仮面」のぬりえの表紙を描いたのが大きなきっかけとなり、その後の人生をきめてしまったというか、狂った方角へ進む羽目になってしまった。

手塚治虫先生はよく私を人に紹介する時に「この世界の草分けの人です」と言って、意味の判らない相手を困らせていたが、私も当時、自分の仕事のジャンルの説明に困ったことが続いた。「月光仮面」と同年に日本初の長編カラーアニメ「白蛇伝」が東映動画で制作され、私はこの「白蛇伝」のぬり絵も手がけた。テレビキャラクターそしてアニメーションの流行の幕開けという時代だった。

大瀬さんは「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士」…等々とテレビ草創期のスターとして一世を風靡したのは周知の通りである。「テレビキャラクターを使ったキャラクターグッズ用のイラストを専門に手がけた」と言えば御理解いただけるかと思うが、こうした横文字が常用化されるまでは本当に自分の仕事を説明するのに困った。

手塚先生が「草分け」と言ったのは、こうしたジャンルを初めて専門に手がけた私を指して言ったのであるが、私としては当初の夢とずれてしまったのが今となっては口惜しくもあり、才能の乏しい自分が何とも情けなく、恥ずかしさを感じながら徒(いたずら)に馬齢を重ねてしまった。

御存知の方も多いと思うが、大瀬康一夫人は、かっての東映映画のお姫様役の高千穂ひづるさんであり、高千穂さんの父君は、プロ野球の名審判として鳴らした二出川延明氏である。

新しい時代の歌舞伎座が華々しく新装開場した。 そして歌舞伎座とは目と鼻の近くにあり、上映中その真下を走る東京メトロ日比谷線の走行音が時折足許から響いてくる「銀座シネパトス」は幕を閉じた。

失われてゆくものは、何でも美しく、切ないほど心をとらえる。

掘割のよごれてとろき水の揺れ生ぐさきかも曇天の下に/木下利玄

女ゆく銀座の夜の葉柳に蒼く光りて夏の星あり/西村陽吉

数寄屋橋や有楽橋が架かっていた外掘川が埋め立てられたのは昭和30年代のはじめだった。

銀座の中にあった異空間―三原橋の地下街。

ああ又ひとつの「昭和」が姿を消してゆく。

 

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