「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(21)

戦後文学を彩った濱野彰親の挿絵

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

松本清張『黒革の手帖』第9回挿絵原画▲松本清張『黒革の手帖』第9回挿絵原画

新しい年が歩み出した1月8日から文京区弥生にある弥生美術館で、親しく御交際させていただいている大先輩の濱野彰親(あきちか)先生の展覧会が始まった(3月31日まで)。

東大弥生門の前にあるこの館は竹久夢二館も併設されているが、私自身もこの館とは親しく交流していて、色々勉強もさせていただいている。優秀な学芸員が揃っていて、目下休館を余儀なくされている昭和ロマン館の先輩館として、この館には特別の敬意を払っている。初日の前日、つまり1月7日に主に関係者による内覧会が開かれ、私も友人を誘い、この会にも出席した。松本清張先生の「黒革の手帖」、山崎豊子先生の「大地の子」…等々。濱野先生の挿絵の全貌がぎっしり並べられた展覧会だった。

濱野先生とは、いつ頃、どこで知り合ったのかどうしても思い出せないが、このところ20年余りはかなり頻繁にお会いしているし、9歳年下の後輩として可愛がっていただいている。たしか師の小松崎茂先生と同行した席が初対面であったように思われる。

東京大空襲で全てを失い呆然と焦土に立った時、師の小松崎先生はちょうど30歳になっていた。戦いが終わって、新しい時代を迎え、小松崎先生は戦後の苦しい飢餓の時代の中で心に再起を誓い、人物デッサンを一からやり直すことにした。デッサン力では定評のある(本欄でも取りあげた)先輩の田代光先生のデッサン会に加わることになり、この会で濱野先生は小松崎先生と巡り合った。

最初濱野先生は若く見える小松崎先生をてっきり年下と思っていたらしいが、話し合ったら、実は小松崎先生の方が11歳も年長だということがわかった。「小松ちゃん(濱野先生は親しさを込めて、そう呼んでいた)は俺のデッサンを大変ほめてくれてねェ」濱野先生はいつも照れながら思い出を語ってくれる。

 

川上宗薫と名コンビ

濱野先生は大正15年足立区千住に生まれた。5歳の折、大きな紙問屋を営んでいた父・亀太郎さんが亡くなり、一時江戸川区平井の伯父の家に預けられたりしたが、7歳頃より母と共に赤坂へ移って一緒に生活するようになった。

 

左から早川清氏(新潮社・取締役)、濱野夫妻、筆者の写真▲左から早川清氏(新潮社・取締役)、濱野夫妻、筆者

少年時代は漫画家に憧れ、加藤芳郎先生達ともグループを作ったりしたが、15歳の折太平洋戦争が勃発。昭和20年には応召されて赤坂歩兵第三連隊に入隊したが、すぐに終戦を迎えている。

苦しい戦後の時代をくぐり抜けたが、どうも自分は漫画家には向かないのではないかと思いはじめ、戦後の出版界の復活の波にのり、昭和21年20歳の若さで推理小説雜誌『トップ』で挿絵界にデビューした。終戦直後の一時期葛飾区金町で、友人の富永秀夫・大作重雄(水沢研)と三人で共同生活をしたことがあったが、この友人達との絆は強く、後に伊達圭次氏も加わって生涯を通じての友となった。

この皆さんを私もよく知っているが、富永先生と水沢先生は後に童画家となり一家をなした。

そこへ小松崎先生も加わる訳だが、小松崎先生は逸早く少年雑誌界の雄となり、仲間の集まりには出られない程の忙しさになってしまった。一方の濱野先生も挿絵界で確実な地歩を占めつつあった。

戦後の出版界の発展は目ざましく、濱野先生は大衆物の挿絵から少年物まで幅広い活躍を開始した。著名作家との初仕事は、昭和26年、地方紙に連載された火野葦平先生の「街の灯」で、火野先生とはその後いくつものコンビを組んでいる。

火野先生を訪ねて、北九州の若松まで出かけた思い出話を、私は何回もお聞きしている。

昭和31年30歳の折俊子さんと結婚。仕事も順調にのびていった。

昭和43年、姓名判断に凝っていた編集者に勧められ、本名の政雄から彰親に改名した。

仕事は順調だが波があった。しかし、改名を機に次々と新しい仕事も舞いこんで来て、一躍多忙をきわめる毎日となった。

週刊誌は常時4〜5本。8本の連載を抱えながら、新聞や隔週誌、月刊誌の連載までこなし、ピーク時は月に40本、150枚以上の挿絵を描いていたことになる(日本経済新聞)。

改名後、川上宗薫先生とコンビを組むことになり、川上先生が書いた濃厚なエロスの世界を描きまくった。前にこのシリーズでも書かせていただいたが、私は川上先生の高校時代の教え子で、流行作家になる前には、毎日のようにお逢いして、官能の世界やら文学論(?)を夢中で話し合った時期があった。

川上先生の話はいつも露骨で生々しい話が多かったが、濱野先生の描く女性像はみんなどこか清々しく品が良くて、川上先生は作品の上で、随分濱野先生の作品に救われ、助けられた点が多いように思われる。

要するにこのお二人のコンビは、まさに絶妙と言って良かった。

こうした中で昭和47年濱野先生は奥様の俊子さんを卵巣癌で亡くしている。享年43歳。濱野先生は46歳で仕事は絶好調の頃だった。

昭和49年には、第2回『噂』さしえ賞。続いて日本作家クラブ絵画賞、昭和50年には、第6回講談社出版文化賞(さしえ賞)の受賞と、戦後さしえ界のトップスターとして押しも押されもせぬ大きな存在となっていった。

 

松本清張も激賞

『大地の子』特別原画展より▲『大地の子』特別原画展より 趙丹青

昭和51年、働き盛り、男盛りの身を案じた亡妻俊子さんのお母さんが心配して再婚をすすめに来る。縁とはいえ、亡くなった奥さんのお母さんが候補者を選んで、再婚のすすめに来るという例は少ないことと思う。この一事でも濱野先生のお人柄を充分に偲ぶことが出来る。そして、そのお相手こそが、現在の麗子夫人である。この20歳近い年の差婚を見事に成功させている点でも時代を先取りしている感がある。私も多くの先輩の再婚例を見聞きしているが、この麗子夫人のような、まさに才色兼備の人に会ったことがない。先妻の霊を手厚く葬い、いつも温かく、明るくおだやかで(もうかなり長いお付き合いだが)お会いする度に感服している。信仰心にあつく、ついでに記すならば、カラオケも物凄くうまい。どちらかというと寡黙気味な濱野先生をしっかり支えているすばらしい奥様である。

そして、松本清張先生からの御指名で、「黒革の手帖」やら「十万分の一の偶然」「迷走地図」他の後世にも残るであろう挿絵の名作を描き、山崎豊子先生の「大地の子」の挿絵も手がけて話題となった。御自分でも若き日版下の仕事も行い、絵も描いていて、御自分の挿絵には特別うるさい松本清張先生も濱野先生の挿絵には絶賛の言葉を寄せている。そのうちのひとつ。「拝啓 拙作『迷走地図』がようやく終わりましたが、いつも申しあげる通り、貴台の挿絵は毎回力作で有難う存じました。おそらくこのお仕事は貴台の代表作の一つになると信じます。デッサンの確かさ、陰影濃淡による量感、構図の的確さ、まことに見事なもので、近来輩出するいわゆる『イラストレーター』なるもののとうてい足もとにも及ばぬところです。この傑作を『迷走地図』に頂いたことを大きなよろこびといたしております。(以下略)」

戦後の挿絵史の中で濱野先生は数えきれぬ多くの作家の挿絵を描いて来た。

現在87歳―現役ばりばりである。若き日親しく交際した仲間はほとんど全員彼岸に渡ってしまった。私の師の小松崎先生も死の床にあって、「濱野に会いてえな…」と漏らしたので、私はすぐに連絡して来院していただいた。二人が夢中で話し合っていた姿が忘れられない。帰りに私がよく行っていた天ぷら屋へ濱野先生をお誘いしたことが妙に心に残っている。御縁があって、濱野先生御夫妻とは故人になった伊勢田邦貴先生夫妻、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の中一弥先生と姪御さん、そろっていつも私が幹事役で随分多くの旅をした。

また、濱野先生と二人で弥次さん喜多さんの旅をしたことも何回かある。

「鬼平―」の中一弥先生は満102歳になった。濱野先生と100歳のお祝いに三重県の津市まで伺ったが、濱野先生との思い出は数限りない。

これからも挿絵画壇の重鎮として益々の御健筆を心よりお祈り申しあげて、今月はこの辺で―。

 

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