「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(18)

浅草・酉の市と「たけくらべ」

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

筆者が描いた吉原の遊女の絵▲吉原の遊女(筆者画)

今年の真夏の暑さは、特別のもののように感じられた。果して涼しい秋が本当に来るのだろうかと疑問視した日もあった。

東日本大震災は別格として、台風や竜巻の被害も多く、完全に最近は異常気象になったという感を強くし、天候そのものに、漠然とした不安感を抱いて過して来たが、気がつけば秋。朝夕はめっきり冷え込むようになった。11月はお酉様の月である。毎年一葉忌(11月23日)が近づくと私も師の小松崎先生もきまって樋口一葉の「たけくらべ」他一葉の本を取り出して再読することが通例になっていた。

私の手許にあった旧仮名遣いで綴られた戦前出版の一葉本は、私と先生の間の長い間の往復でボロボロになり、出版社さえ判らなくなっていた。破れて失った表紙を、先生が亡くなる少し前に器用に新しい表紙を縫いつけて繕ってくれたので、私には宝物となり、大事に保存していた。その先生が亡くなられた折り、日頃からくり返し愛読し、病院にまで持ち込んでいた安藤鶴夫先生の本何冊かと、これも愛読書の田山花袋の「田舎教師」と一緒にお棺の中へそっと納めた。

 

吉原の「明」と「暗」

熊手買って千住旧道 月明り 白峰

古くは、現・足立区花畑町にある鷲(おおとり)大明神の酉の市を大酉、本酉といい、千住勝泉寺の鷲明神を中酉、浅草のを新酉と呼んだという。そして、吉原遊郭が、すぐ裏に控えていたので、浅草のお酉様は繁昌し、一番有名になったのだという。昔のお酉様の頃は本当に寒かった。

「此年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく(中略)仲之町の通りは俄に方角の變(かは)りしやうに思はれて、角町(すみちょう)京町處々のはね橋より、さっさ押せ押せと猪牙(ちょき)がかった言葉に人波を分くる群(むれ)もあり…」

御存知樋口一葉「たけくらべ」の一節である。照明にあかあかと浮かび上がった妓楼。三弦と嬌声。酉の市に賑う吉原の様が、ヒロイン美登利への哀感とともに甘酸っぱく胸に迫る。

私の中では、幼時祖母に手をひかれて歩いた吉原の街並みの記憶と、その後映画その他様々の見聞により意識の中に出来あがっている明治44年の吉原大火前の仲之町の心象(イメージ)が入り混じり、重なり合い、目を閉じると、私の世代では見られる筈のない華やかな青楼の連なりが、虚実交々、遠く淡く回燈籠(まわりとうろう)のように脳裏でゆっくりと廻りはじめる。

江戸の男女人口比は、開府以来つねに男が圧倒的に多かった。参勤交代の諸大名に従って上府する家臣の多くは、国許に妻女を残したいわば単身赴任者であり、武家に仕える仲間小者(ちゅうげんこもの)に妻帯者はいない。町人男の大半は独身男だったし、加えて開府以来の街造りと、土木諸事業に諸国から流入する夥しい労働人口は、殆んど「男」ばかりだった。これは西部開拓当時のアメリカと同様で、女性は稀少価値を持っていた訳である。これらの独身男性(ひとりもの)の心を和らげ、治安、風紀、秩序を保つために、当時の社会にあって、遊郭はまさに必要悪であった。明暦の大火以降、日本橋葭町(よしちょう)から浅草田圃(たんぼ)に移された遊女町―新吉原は、急速に発展して、江戸名所のひとつになったが、それは半面遊女達の涙と悲哀の上に築かれた哀しくも痛ましい泡沫(うたかた)の楼閣そのものであった。現在の荒川区三の輪に残る浄閑寺は、吉原の遊女の投げ込み寺として知られている。先代の住職と親しくした時期もあり、私もよく訪れた。

遊女達は身を売ると同時に人別(にんべつ―戸籍)からも外されたそうで、花又花酔翁の「生れては苦界(くがい)死しては浄閑寺」の句の通り、新吉原三百年の紅燈の陰で、この寺に捨て犬のごとく無縁仏として投げ込まれた遊女は、実に2万5千体に及んだという。身を売った者が、病気になり、衰え果てた行く末ほど哀れなことはない。ろくに看とられず死んで行った遊女の多くは、日本堤の上をたどって、堤の北端、日光街道に近い箕輪(当時の呼称)の浄閑寺に、無縁仏として葬られるのが例となったのである。

浄閑寺は正しくは「栄法山清光院浄閑寺」と号し、久しく増上寺の末寺であったが、現在は浄土宗知恩院に属している。

 

永井荷風と浄閑寺

酉の市の夜の賑わいの写真▲酉の市の夜の賑わい

永井荷風がはじめて浄閑寺を訪れたのは、明治31年か32年頃と記録にあるが、当時荒れ果てたこの寺を荷風はひどく気に入って、度々訪れ有名な「断腸亭日乗」の中でも、自分が死んだらこの寺に葬ってほしいと記し、葬儀のことや、墓石の大きさの注文まで書いている。

昭和7年に書いた吉原大門から浄閑寺へいたる風景描写と寺内の描写は、何回読み返しても胸に迫るものがある。

「かういふ淋しい中を、進んで行って、いよいよ本堂裏手に来ると、地面は全く湿ってゐて、陰気な土のにほひが鼻を襲うてくる。日の光というものは、幾百年の間決して、この境を照らしたことはないであろう。あたりに聳ゆる榎の枯葉は、毎年毎年落ち積もったままに朽ち腐れて、気味悪い形と色をしたきのこが幾個かその間からはえている。何たる、淋しい、物怖ろしい有様なるよ。来る人はたちまち陰惨の気に打たれて、すでに冷たい穴の中にはひったような心持がする。きのふまで、緑の黒髪を黄金に飾り、雪なす肌を錦の裲襠(うちかけ)にまとはせた、花とも蝶とも見るべき遊女の骨は、じつに、この陰気な淋しいところに横たはってゐるのであった。(以下略)」

荷風先生は雑司ヶ谷墓地に眠っているが、後に、谷崎潤一郎、高見順、北條秀司、尾崎士郎、花柳章太郎など42人の有志によって、故人ゆかりの品を埋めて浄閑寺に荷風碑を建てた。

荷風先生死去4周年の命日昭和38年4月30日荷風碑建立委員会―と撰文に記されている。文学碑は本堂の裏手にあり、昭和4年に改修された「新吉原総霊塔」の目と鼻の所にある。

「今の世のわかき人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。われは明治の兒ならずや。その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり。團菊はしをれて桜癡は散りにき。一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の聲も亦絶えたりき。圓朝も去れり紫蝶も去れり。わが感激の泉とくに枯れたり。われは明治の兒なりけり。(以下略)」長々と続く文の中にはこの後にも多くの敬愛した人達の名が文の中に巧みに綴り込められている。

荷風先生がいかに明治を愛していたかが、切々と伝わってくる。

 

 

忘れられぬ祖母の手の温もり

お酉様の話から大脱線してしまった。脱線ついでに―私事を申しあげるが、私の母方の祖母は娘の頃、作家村上浪六家で女中奉公をしていたという。和裁が得意だったので、その後は裁縫のお師匠さんとして、知人の娘さん達が多く習いに来ていたという。

祖母の叔母夫婦が吉原で中位の妓楼を持っていたそうで、その店の縫い物(遊女たちの)を多く手がけた話を幼い頃よく聞かされた。

そんな訳で私を溺愛してくれた祖母は吉原に詳しく、お酉様で熊手を求め、裏手に出て弁天池の傍ら弁財天の隣りに建つ吉原観音に詣でるのが常のコースだった。この吉原観音は、吉原の遊女をはじめ関東大震災の多くの犠牲者を供養するために大正15年に建立された。大きな弁天池の周囲には見世物小屋も並び活況を呈していた。サーカスのジンタの音など私の幼い耳に残っている(池は昭和34年に埋め立てられ、吉原電話局が建ってしまった)。お酉様の日は、一般の子女も吉原の中を堂々と歩けたので、子供心には何だか判らない明るく華やかで賑やかな通りを歩いて楽しかったことと、祖母の手の温もりが今でもなつかしく思い出される。それにしても昭和40年代頃までのお酉様の人出は凄かった。入谷方面、国際通り方面、三の輪方面と三方からの人の流れを機動隊の警察官たちが整理しているのだが、お詣りするまでかなりの時間を要した。

たしか人ごみで将棋倒しとなり圧死した人が出たのはいつ頃のことだったろうか…。

祖母は昭和24年7月まだ一面の焼け野原だった八王子で、祖父との仮小屋生活の中で亡くなった。葬儀も終わって帰柏の途中、その日の朝起こったばかりの、まだ生々しい「三鷹事件」の電車の暴走・脱線現場を電車の窓から見た。

 

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