「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(14)

トラちゃん≠フ一目惚れ

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

星襄一 王の樹(木版)1976 年の写真▲星襄一 王の樹(木版)1976 年

一目惚れ│という言葉がある。私はといえば根っからのミーハー的一目惚れ症候群患者で、要するに、たいへん惚れやすい性質で、若い頃から女性に限らず、色々なものに一目惚れして、特に女性の場合は、きまって一人相撲が多く、その度「熱しやすくて冷めにくい」自分の感情を持て余し、勝手に他愛ない夢に溺れて一人思い悩んだりすることが多かった。近頃はそんな私を親しい友から「男はつらいよ」のフーテンの寅さんになぞらえて、「トラちゃん」というニックネームで呼ばれるようにもなった。今月は一目惚れした多くの人達から御三方を取りあげさせていただくことにした(女性の話ではないので、期待外れしてしまった方には一寸お詫びを申しあげて…)。

若き才能が光る蔡國華

平成7年頃、銀座の小さな画廊で一枚の絵と出会った。全身にビリビリッという衝撃をうけて私は吸い寄せられるように画廊に入って行った。それが│昭和39年上海生まれの蔡國華( ツァイ・ゴーホァ)さんの作品との出会いだった。

私は一目で蔡さんの作品に魅了され、この若い画家に深い関心を抱いた。

 

蔡國華 時の流れー祈りの写真▲蔡國華 時の流れー祈り

蔡さんは昭和が平成に変わる頃来日。武蔵野美術大学油絵科に学んだが、在学中から頭角を現し、洋画界の新星として人気者となった。

 

筆者(左)と蔡國華さんの写真▲筆者(左)と蔡國華さん

平成9年、横浜美術館アートギャラリーで個展が開かれていることを知り、私は横浜へ出かけ、ダイナミックな作品に接し、すっかりファンとなってしまった。その折り、思いがけず、御本人ともお会い出来て、その若いハンサム振りにも驚かされた。

詳しいことは判らないが平成11年オーストラリアに移住。平成13年に再来日し、東京を拠点にエネルギッシュに制作活動を続けている。

3年程前に、京橋金井画廊で再会。本当に嬉しかった。

金井画廊では定期的に蔡さんの作品を見ることが出来る。なお画廊主の金井さんは松戸市在住とお聞きしている。

星襄一の「王の樹」

昭和50年、柏の自宅を建て直すことになった。2棟に分かれていた家をひとつにまとめることにした。両親はじめ末弟もまだ家に居たし、子供も3 人になったし来客も多いので、玄関は広い吹き抜けにし、私の仕事場や書庫もたっぷりとったら建坪は74坪になってしまった。家が出来あがって玄関に飾る絵を私は楽しみに探し始めた。父を喜ばせたくて建てた家だったので、純和風造りで、なかなかぴったり思い当たる絵がなかった。ちょうどその頃銀座の「和光」で、「星襄一展」が開かれた。星さんの噂はアメリカに住んでいる友人から聞いていたが、和光で作品と出会い、これも一目惚れしてしまった。

 

筆者(左)と星夫人の写真▲筆者(左)と星夫人

星さんの代表作「王の樹」を購入し、玄関に飾ったが、私にとってこの絵は家のお守りのようにも思え、長い間大切に飾らせていただいた。

星さんは大正2年新潟県小出町に生まれた。戦後、外地から引き揚げてきて印刷業をしながら独学で孔版画の技術を深め、昭和24年に日本版画協会賞受賞。40歳代で武蔵野美術学校(現美術大)で木版を学んだ。

作品は国内の他、ニューヨーク近代美術館やロックフェラー財団コレクションなど、特に海外で高く評価され、世界的に広くコレクションされている。前述の通り星さんは新潟の生まれで、私も心の師として尊敬していた越後湯沢に戦後ずっとお住まいになった童画家の川上四郎先生に星さんも同郷の大先輩として憧れていたそうで、私にもぜひ会いたいと言われ楽しみにしていた。

アトリエを新築しているので、出来上がったら来てほしいと言われていたが、アトリエが出来上がってすぐ、昭和54年6月にお亡くなりになってしまった。回顧展の時にお会いした奥様のお話では、楽しみにしていたアトリエでは殆ど仕事をしないうちに急逝されたようで、逆算すると66歳という享年はお若かったし、電話で何回もお話し、私も楽しみにしていたので今もって口惜しくてたまらない。

作品「樹のシリーズ」全作品149点は版木とともに海外流出を避け、奥様が地元の八千代市に全点寄付された。「常設展示」を約しての寄付だったが、気にかけながら、その後の経緯を私は知らない。実は縁というものは不思議なもので、星さんが愛用した彫刻刀は、私の学友Eさんのお兄さんが作成したものだそうで、又、星さんの作品の額縁は全点、これも広尾で大きな額縁店を開いている学友のKさんの店の作品と聞いてその偶然に驚いてしまった。

星さんが亡くなって30年以上経っているのだから月日の流れの早さにも驚かされている。 さて我が家の「王の樹」(55・5×88センチ)は転居した折、親類の画廊へ店の看板として貸したままになっている。因みに銀座和光で購入したこの作品はバブル期には20倍以上の値がついていた。懐はいつも寒々しいのに、私の一目惚れはどうしようもない。

 

佐々木栄松 早春の湿原(狐)1970 年の写真▲佐々木栄松 早春の湿原(狐)1970 年

湿原の画家″イ々木栄松

銀座の文春画廊で佐々木栄松さんの作品を前にした時も、前述の蔡さん、星さんの時と同様に一目惚れなんて軽いものではなく、強烈なショックを受けた。目の前に釧路の湿原が広がっている。私は残念ながら釧路の湿原に足を運んだことはないが、ファンタスティックな作品の前に釘付になったように立ちすくんでいた。私は土地だけではなく佐々木さん御本人にもお会いしていない。

地元釧路ではかなり著名なお人だという噂を耳にしたことがある。大正2年北海道生まれ。残念なことに今年1月に98歳で亡くなられたという。絵は独学と聞いている。

一面の雪原を割って、黒々と大地の生命がほとばしる流れに群れるシカ、神秘な紺青の水にひそむ白い幻の巨魚イトウ、落日の朱にすべてが染まる湿原を荷を積んだ馬、犬、子供たちの一家が前になり後になり家路を急ぐ思い出の夕暮れ。みだれ咲くサビタの花とともに湿原から現れる花の精。ツルや白鳥、湿原の花々…夜の湿原はメルヘンそのものである。

実は私は、同じ文春画廊で、一年おいて再度個展を拝見している。思いがけず再び眼福の機会に恵まれた訳だが、会場に奥様の姿があり「画集を作りまして…」という話を耳にしたので、早速購入して帰ろうと思ったが、「何しろ発行部数が少ないので馬鹿みたいなお高い画集になってしまい申し訳なくて…」と言って遠慮して画集の価格を教えてもらえなかった。

その奥ゆかしい言葉に感じ入り、私はあきらめて会場を後にした。ところが不思議なご縁でこの画集は数年前入手することが出来、今私の手許にある。

昭和51年の出版で、限定100部。本の価格は明示されていない。画集には釣り仲間だったという開高健さんや、画家の桂ゆきさん達数人のあたたかい文章も添えられている。

今月は御三方のみ取りあげさせていただいたが、実は今も数人どうしても一目惚れしてしまった作品があり、近々体調を整えて出かけようと思っている。女房に早く先立たれて以来片思いばかりの女の人への憧れと一目惚れは数えきれない程だが、みんなラストは笑い話で終わるものばかりで、トラちゃんと呼ばれる所似である。

喜寿も過ぎたので、年なりにもう少ししっかりした人間になれたらと思いつつ、瘋癲(ふうてん)老人族に仲間入りしてしまったようで残された命の時間を考えては溜息を洩らす毎日である。

 

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