「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(13)

懐かしい「おばちゃん」三崎千恵子さんの声

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

三崎千恵子さん(中央)と筆者(右)の写真▲三崎千恵子さん(中央)と筆者(右)(「夕焼け天使」セットにて)

京成線「柴又」駅の駅をはさんで帝釈天の反対側に光明社という会社があった。

会社といっても普通の仕舞屋(しもたや)で、この家の主の松尾安宏氏は、かって私もお世話になった紙製玩具(ぬりえ、ゲーム、カルタ等)メーカーの小出信宏社の小出信一社長の実弟で、小出時代は営業部長をしていた。

昭和40年春、小出社長の入り婿となって入社して来た山田高旦氏と反りが合わず、細かい経緯は省かせていただくが、すぐに山田氏が営業部長となり、何年かして別の事情もあり、その営業部を独立させて「万創」という会社を設立した。テレビキャラクターブームの波にのり、「万創のとびだすえほん」は、ほんの一時期ながら一世を風靡した。読者の中でも御記憶されている方も多いと思う。

このシリーズで前にも記したが、私は20代の頃より小出信宏社の製品を半専属のような形で描きまくり、昭和40年には招かれて一年だけという約束でお支度金付きで小出信宏社へ入社し、企画室長という椅子に坐らされた。

病弱の小出社長と、個性的で遣り手で敵の多い山田氏と両方から強引に引きとめられ続けた私は、一年だけという約束が、「とびだすえほん」が確実に軌道に乗ったのを確かめて6年目にやっと退社することが出来た。いや一寸綺麗ごとを書いてしまった。その実は会社の超放漫経営にあきれて空恐ろしくなって逃げ出したというのが本音だった。

昭和46年、私は役員の一人として月50万の給料を貰っていた。当時としては破格の待遇だったが、東映、日本テレビ、TBS他の応援で、アルバイトで下手なイラストを描きまくり、給料の2倍以上の別途収入を得ていた。会社には給与上の厚遇だけでなく居心地も良かったので感謝もし、会社の将来も案じてはいたが、私が退社した2年後の昭和48年6月18日に私の悪い予感が当たって、「万創」はあっさり倒産し、大きな新聞種にもなった。私は完全に会社と縁を切っていたので詳しいことは判らなかったが、元役員ということで私にも様々な問い合わせが殺到し、絵を書いていられない日が随分長く続いた。

「あら、根本さんじゃないの」

長い前書きになってしまったが倒産後のかっての仲間の数人が集まって、冒頭に記した「光明社」を設立し、松尾氏宅で制作、営業を始めた。古くからの義理もあるし、私も光明社の製品のイラストも手がけるようになった。その日も光明社の打ち合わせを終えて、私は久々に帝釈天にお詣りして帰ろうと思い参道のお団子屋へ寄り道をしていた。

 

「番頭はんと丁稚どん」の楽屋での写真▲「番頭はんと丁稚どん」の楽屋で 筆者が描いた「番頭はんと丁稚どん」の写真▲筆者が描いた「番頭はんと丁稚どん」

「あら、根本さんじゃないの? 根本ケイスケさんでしょ?」。突然店の奥から大声で名前を呼ばれ吃驚して声の主を見ると、三崎千恵子さんだった。「今日はお詣り?」という問に咄嗟のことで私は思わず大愚問で言葉を返していた。「あれ三崎さんどうしてここに居るの?」。言ってしまってから、「しまった!」と気が付いた。三崎さんのおばちゃんが団子屋に居るのは当たり前のことで、慌てていると、「ロケが終わってね。皆もう引きあげて私だけ一寸残ったのよ」。三崎さんは軽くフォローしてくれた。

どうやら店の奥で近所の人達に囲まれて、サインを頼まれているらしかった。
  三崎さんとは久し振りでその場は一寸言葉を交わしてお別れしたが、ここで話は昭和30年代半ばに溯る。KRテレビ(今のTBS)で「夕やけ天使」という番組が作られた。

その頃から私はテレビのキャラクターの商品化用のイラストを描きまくっていた。

当時は参考にする写真が全くないので、よくTV局へ直接出向いて(生放送の時代だったので)俳優さんの身体が空いているのを見計らってカメラに収めた。その「夕やけ天使」のセットで三崎さん、三国一朗さん達と知己になった。

三崎さんとはその後何回か文通したり、電話で話し合ったりした。ある時は偶然バスの中で会って、赤坂で降りて、お茶を飲んだこともあった。

三崎さんは、池袋?だったかに「てっぱや」という料理店を経営していたが、私は酒は一滴もダメなので再三お誘いをいただいたが、お店へ伺う機会は逸してしまった。

三崎さんはデビュー当時松竹演芸部に入り、歌手として松竹系の映画館のアトラクションに出演したりしたという。気さくで、普段も全く変わらないので、「よく知らない人から親しそうに話しかけられるのよ」と言って愉快そうに笑っていた。「夕焼け天使」には松島トモ子ちゃんも出演していた。水上生活者の話だったが、番組はヒットしなかった。

 

「あんみつ姫」の中原美沙緒さんの写真▲「あんみつ姫」の中原美沙緒さん

果たせなかった鎌倉の約束

関西で、「番頭はんと丁稚どん」「とんま天狗」が凄い人気というので、これも大阪まで参考写真を撮りに出かけた。

同じ頃には中原美沙緒さん扮する「あんみつ姫」もあったし、山城新伍の「風小僧」「白馬童子」…思い出は果てしなく広がってゆく。

昭和34年には皇太子さま(現・天皇陛下)の御成婚でテレビの需要が急増し、その大量生産が軌道に乗るに従い価格も低下、一般家庭にも浸透することになり、世はまさにテレビ時代を迎えることになった。

昭和30年代半ばといえば、番組上から言えばテレビ普及期と言っていい時代だったが、30年代終わり頃から40年代に入ると、子供向け番組ではTVアニメ草創期というように数々のアニメがブラウン管に登場し、更に怪獣ブームも加わってキャラクター狂想曲というような時代に移り、私も完全にその波の中でアップアップすることになる。

話は「夕焼け天使」に戻るが、この番組には赤尾関三蔵さんも共演していた。

三崎さん、赤尾関さん、私の三人でカメラに収まったが、今回どうしてもその写真が見当たらず、掲載出来なかった。この赤尾関さんとも数回お会いしているが、昭和39年9月30日、日本シネマ『誤審』のロケ中に、福島県南会津郡の大川ラインで、脱獄囚に扮した高須賀忍さんと赤尾関さんが川を渡るシーンで、二人は手錠でつながれたまま急流に押し流されてしまった。二人の遺体が発見されたのは10月9日、事故現場から8百米も下流だったという。

 

台東区立下町風俗資料館の「東京の子供百年展」のために筆者が描いたイメージラフ▲筆者が描いた「頓馬天狗」

この話は後から知ったが、そんなことからも「夕焼け天使」は三崎さんと知り合うきっかけとなった番組でもあり、妙に心に残っている番組なのである。その後、三崎さんの多忙振りは承知していたので、長いこと連絡は遠慮して来た。

生前の赤尾関さんを知る人と偶然お会いする機会があり、思い出に花を咲かせたが、しばらく御無沙汰していたので三崎さんにお電話してみた。足が相当に悪いと話していたが、「お会いしたいですね」と言うと、鎌倉駅近くの喫茶店(店名を失念)まではどうにか行けるから…とのことで再会を約しながら果たせなかった。「寅さんシリーズ」の終わりの頃には座敷へ上る動作もままならず「山田監督が苦労してごまかしてくれたのよ」と色々近況を話してくれた。「あー鎌倉の喫茶店へ出向いて、もう一度お会いしたかった…」。文字通り後悔先に立たず。この歳になると、すぐ行動しないと悔いを残すことになる、としみじみ思い知らされた。

三崎さんは、先に逝っている最愛の夫・宮阪将嘉(まさよし)さんと巡り合い、なつかしい新宿ムーラン時代のことなど話し合ったり、新しい芝居の準備でもしているだろうか…。

「あら根本ケイスケさんじゃないの?」。元気な団子屋のおばちゃん、三崎さんの声がなつかしく甦ってくる。

 

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