「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(2)

偉大な出版人・岩堀喜之助の娘 作家・新井恵美子さん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

漫画家ウノ・カマキリさん、新井恵美子さん、二代目松原操さんの写真▲右から漫画家ウノ・カマキリさん、新井恵美子さん、二代目松原操さん(筆者写す)

月刊娯楽雑誌『平凡』が発行部数100万部を突破したのは、昭和28年のことだった。

昭和20年、焦土の中で「腹いっぱい食うために」を旗印に、同志に声をかけ焼け跡のビルの一角から雑誌発行の旗揚げをした創業者岩堀喜之助氏は当時35歳だった。

終戦の年の11月、岩堀氏の並々ならぬ熱意で、大衆の心を満たす糧として雑誌『平凡』は誕生した。総ページ48ページ、定価1円、初版は3万部だった。表紙はグラフィック・デザイナー大橋正、題字は大橋と山名文夫が担当した。冒頭に記したように『平凡』が100万部を突破した昭和28年には、奇しくも後にメディアやエンターテインメントのキングとなるテレビジョンがNHK東京テレビ局(JOAK・TV)で本放送を開始している。受信契約数はわずか866だったという。

昭和34年5月には『週刊平凡』を創刊。初期の頃のアンカーライターであった亡き向田邦子さんは、テレビの表現方法を誌面に生かした「視覚的な文章」を書くことを要求されていたとの談話を残している。そして、若者達のために『平凡パンチ』を創刊(昭・39)、更に新しい女性誌『アンアン』(昭・45)そして『POPEYE』(昭・51)、『クロワッサン』(昭・52)、『BRUTUS』(昭・55)、『オリーブ』(昭・57)等々のマスマガジンの創刊を続け、現在のマガジンハウスへと流れは続いている。

焼け跡に芽生えたロマンを大切に育んだ昭和の戦後を代表する偉大な出版人岩堀喜之助氏は、昭和57年10月8日未明、急性心不全で72歳で不帰の人となった。長い前書きとなってしまったが、今月の主人公は岩堀氏の御長女、作家の新井恵美子さんを取りあげさせていただいた。

執筆、講演、演奏会と八面六臂

新井さんは昭和14年東京に生まれたが、戦況の激化により父岩堀氏の郷里である小田原に疎開し、この地で成人した。

小田原城内高校卒業後、学習院大学文学部国文科に進学。しかし「女は嫁に行き、家庭を守るべき」が持論の岩堀氏は大学を中退させ、娘を嫁がせた。昭和36年のことである。

もともと文学的素養に恵まれていた新井さんは、昭和38年『雨ふり草』で随筆サンケイ賞を受賞。昭和61年には『サエ子とハマッ子』で横浜市福祉童話大賞受賞。平成8年には『モンテンルパの夜明け』で第15回潮賞ノンフィクション部門受賞を果たし、今や新井さんはノンフィクション作家として八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしている。その著書も数多く、ざっと記しただけでも『ダバオの君が代』『箱根山のドイツ兵』『腹いっぱい食うために〜「平凡」を創刊した父岩堀喜之助の話〜』『哀しい歌たち』『わたしの小田原』『江戸の家計簿〜家庭人・二宮尊徳』『原三渓物語』『女たちの歌』『岡倉天心物語』『菜穂女につかわす』『少年たちの満州』『マガジンハウスを創った男』『美空ひばりふたたび』『美空ひばり・神がくれた三曲』『龍馬と弥太郎─海に賭けた男たち』『乱世を駆けぬけた姫お江』…とそのエネルギーはどこから湧いてくるものかと私はいつも驚嘆している。

新井さんの著書「マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助」の写真▲新井さんの著書「マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助」(出版ニュース社)

その上、新井さんの凄さは書くことのみに止まらず、各地で講演会も開き、熱心な読者や追っかけファンに囲まれて、その中心でいつもにこにこされている。

二宮尊徳を語り、原三渓や岡倉天心を語り、近頃は「お江」を語っているが、説得力のあるその語り口は評判を呼んでいる。

その上、二代目松原操さんと組んで、戦前、戦中、戦後の歌にまつわる秘話を世相史を背景に蘊蓄(うんちく)を傾け、昭和の語り部として松原操さんとの歌唱とともに楽しい演奏会も続けている。

この「懐メロ楽校」は回も重ね、多くの人が集まり、一様に往時を懐かしんでいるが、当初は私のイラストをチラシに使っていただき光栄に思っている。

何よりも私が新井さんに感心しているのは、横浜市文化振興財団評議員をはじめ数々の要職をこなし、その他好奇心の旺盛さと、フットワークの軽さで、会話の合間にもさっと手帳を出してメモをとる速さ─。興味のある所へはどんどん出かけて行く行動力には脱帽としか言いようがない。

いつも控え目で温かいその人柄を慕う人も数多く、先頃もそのグループで横浜・上大岡にある美空ひばりの館「ギャラリーカフェ十三番地」へ御一緒し親しい面々と楽しい一日を過ごした。

つい先日も私はどうしてもスケジュールがつまっていてお伺い出来なかったが、新井さんのお話を聞きながら海軍カレーを食べ、戦艦三笠を見学するという「横須賀散策ツアー」があったが、帰りはカラオケつきで随分盛りあがって楽しかったという話を参加した何人かの人達から伺った。

『美空ひばりふたたび』と『美空ひばり・神がくれた三曲』の二冊をお書きになった頃、電話でそのことを伺い、「今から美空ひばりですかー」と私は一寸驚いたが、流石に『平凡』の岩堀社長のお嬢さん。秘められた当時のエピソードも数多く盛り込まれ、既刊されているひばり本とは一味違うひばり本が出来あがり、楽しく拝読した。

昨年秋には、新井さんの文、前述の二代目松原操さんのCD、私の拙いイラストで、『なつかしの童謡唱歌』という本が北辰堂出版から出版された。病み上がりの私は体力がすっかり落ちていて、会社はもとより、お二方にもすっかり御迷惑をおかけしてしまった。

 

新井さんからのメッセージ

『平凡』1953年1月号「百万部突破記念特大号」の表紙の写真▲『平凡』1953年1月号「百万部突破記念特大号」の表紙 (c)マガジンハウス

実はこの度新井さんを本紙に取り上げさせていただく旨を報告したところ、新井さんから私宛に逆にメッセージをいただいた。自分のことを書かれたことはないので、恥ずかしさを通り越した思いだが、原文のままここへ掲載させていただくことにした。

 

愛すべき寅さん

「小学生の時、吉原に通ったんですよ」ある時、根本さんは言った。「えっ。何とおませな小学生なの?」私たちは目を丸くした。

「メンコやベーゴマをするために行ったんですよ」疎開世代の根本さんはその頃、東京に残っていて、遊び友達を得るため吉原まで通わねばならなかったのだという。「なあんだ」と私たちは笑ったが、根本さんの話術にすっかり感心させられた。

根本さんのいる所、いつも笑いとぬくもりがあった。不思議な人である。沢山の人に愛される根本さんは沢山の友人を持って居られる。その上、どの人とも濃い交わりをしておられる。その多くの友人たちが根本さんを「寅さん」と呼ぶ。

例の話術で彼は自身の「恋の遍歴」を面白おかしく語ってくれる。いつも未遂に終わる恋物語は短編小説を読むような楽しさなのだ。

画家としても知られる根本さんが、実はこよなく懐メロを愛する方であることも分かった。

一言で根本圭助氏を表現するならば「この世で友となりたい」人物である。きっと多くの彼の友人たちは私の意見に賛成してくれるだろう。 新井恵美子

 

こんな経験は初めてのことで身の置き所もない程に恥ずかしい。このメッセージが届いた時、ちょうど古い友人が来宅していて、「流石にプロの筆は違うね。短い中に根本さんがよく出ている─」と感心してくれた。てれ臭いので、再び岩堀氏の話に戻って、恥ずかしい話から逃れることにする。

岩堀氏は絢爛豪華とも言える人間関係に恵まれていた。岡晴夫や美空ひばりなどの多くの芸能人をはじめ佐藤栄作、五島昇、井深大、堤清二…等々。その一人中曽根康弘さんは心に残る教えとして岩堀氏の「女性下着論」をあげている。「中曽根さん、あんた近頃の女の子の下着が非常にカラフルで、きれいになったことを知っていますか…。知っているわけはねえよな。政治家が若い女性の下着をのぞき見したんじゃ新聞ダネだもんな。これはね、高度経済成長によってOL連中が、うんとお金をもつようになったからなんだ。それがいちばん最初に、下着に現れたんだね…」

いつも大衆の中に身をおき、誰よりも大衆を愛し、流行に敏感だった岩堀氏の言葉である。何年か前、取材で訪れた山本晋也さんが私のコレクションの中から大橋歩さんが描いた『平凡パンチ』の表紙集を見て、「あー私達はこんなモダンですばらしい雑誌に囲まれていたんですネー」といって目を潤ませていたのを今思い出した。

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