「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(45)

粋人として多くの芸人に愛された画家・今村恒美先生

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

「江戸暦渡世絵姿」の写真▲「江戸暦渡世絵姿」より

「八十を過ぎて、やっと本当の恋というのを知ることができた…」。銀座の喫茶店で、今村恒美先生は満面に笑みを浮かべて私に話しかけた。「見せてあげようか?」。今村先生はちょっと不自由な右手を震わせながら、背広の内ポケットから丁寧に紙に包んだ写真を取り出して、こっそりと、しかし得意そうに見せてくれた。正直のところ、私は奥様のちのさんにもお目にかかったことがあるので、ちょっと複雑な思いでその写真を拝見した。

今村恒美(本名・栄)―日本画家・堀田秀叢に師事し花鳥画を学び、山川秀峰に師事して美人画を学んだ。私の師・小松崎茂の若き日、同じく堀田秀叢門下時代の兄弟子である。

昭和10年頃挿絵画家に転じ、人気挿絵画家として戦後も長く活躍したが、若い頃から芸事が好きで寄席の鈴本の舞台にも出演し、獅子舞を披露し、粋人として多くの芸人にも愛され、慕われもした。ユーモア作家・玉川一郎さんの紹介で「鈴本」のプログラムを昭和26年頃から手がけ、上席、中席、下席と月3回の表紙絵を30年以上描き続けた。タウン誌『浅草』の表紙も10数年にわたって描き続けた。

今村先生は、明治42年3月、千葉県佐倉市に生まれた。生母は産後の肥立ちが悪く、今村先生を産んでから19日目に亡くなってしまったという。今村先生は子供の頃から色々苦労もし、図案屋、仏壇屋、菓子屋の小僧なども経験して青年時代を迎えた。もともと幼い頃から画才に恵まれていて、紆余曲折を経て、前述の通り、日本画家・堀田秀叢の門をくぐった。

小柄だがハンサムだった今村先生は女性にもてて、師の小松崎茂先生の思い出でも、秀叢先生から「今村を探して来い!」と言われて、自転車に飛び乗って、今村先生の遊び先を探しまわったことも数知れず! 随分板挟みで苦労したという。「今村先生は俺と違って好い男だったから、絵の修行も大変だったと思うよ。その点俺は恵まれていたよ」。小松崎先生は、当時を思い出して、いつも愉快そうに笑っていた。

今村先生は御神楽を趣味にしていたが、獅子舞も舞うようになり、多くの落語家の襲名披露の高座にも上り、寄席の鈴本のみならず、テレビ出演、東横劇場、水道橋能楽堂、はては国立大劇場の舞台にも上ったという。

客席の女性陣が、「あの今村恒美っていう人、絵も巧いんだってよ」と噂しあっているのを私も聞いたことがある。

昭和27年の鈴本のプログラムの夜の部に懐かしい錚々たる当時の落語家、漫才師の連なるラストに大喜利として「寿獅子今村恒美」の名がちゃんと載っている。余談だが、この夜の部には、交互出演として、森繁久弥、シミキンの名があり、どんな高座だったんだろうと、見る機会を逸したのが残念でたまらない。

右手が不自由なら左手で

晩年の今村先生(右)と筆者の写真 ▲晩年の今村先生(右)と筆者

50歳代の半ば、今村先生は右手がぶるぶると震えて絵筆を持てなくなった。

中風かと思ったが、長いこと右手で絵を描きまくって、その酷使による脳障害ということだった。私が文字を書いてるそばで、「圭助くんはいいなあ。右手が自由に使えて…」と羨ましがられたが、それから苦労して絵筆を左手に持ちかえて、絵も一段と良くなっていったのだから、凄いもんだと思う。

「絵は心だよ」。今村先生に言われたが、その境地にいたるまでの陰の苦労は大変だったことと思う。昭和59年10月、上野精養軒で、『今村恒美画業生活55年記念・江戸暦渡世絵姿』の出版記念会が盛大に開かれた。私の手許にその時の案内状が残されているが、発起人、世話人のメンバーが物凄いもので、今村先生の交遊の広さを通してその生き様が垣間見られる。村上元三(作家)、市川右太衛門(俳優)、大友柳太郎(俳優)、柳家小さん(落語協会)、桂米丸(落語芸術協会)、春風亭柳昇(ゆう・もあくらぶ)、陣出達朗(作家)、宝井馬琴(講談協会)、木村若衛(日本演芸家連合)、東家浦太郎(日本浪曲協会)、小島貞二(有遊会)、中一弥(日本出版美術家連盟)、内山栄一(台東区長)、高砂浦五郎(高砂親方)、興津要(早大教授)、他にも、リーガル天才、坂野比呂志、田谷力三、松鶴家千代若、宮尾たか志…抜き書きした名前をたどるだけでも楽しくなる。

「今村先生とは随分長いなぁ。先生は志村立美先生や亡くなった貞丈さんやなんかと仲良くて、よく一緒に旅行をしたり飲んで歩いたね。俺がいつも色紙に描いているたぬきの絵も今村先生ゆずりだし、龍とか、馬とか色々教わったなあ。美人画も良かった! 右手が不自由で左手で描いちゃうんだから―凄い人だよ」(5代目故柳家小さん)

「昭和33年に私が歌奴に真打ちになりました時には、奴凧の絵を描いていただきました。前の家内が死んだ時にも、菩薩の絵を描いていただきまして、今仏壇に納めてあります。三平君が亡くなった時にも、そういう絵をお描きになってましたね。こういうことには、とてもよく思いやってくださる方でした」(3代目三遊亭円歌)

「落語家はよく色紙を頼まれるでしょう。そんな時の為に、『今村先生、何か簡単なものを教えて下さいよ』って、絵の稽古をした噺家もたくさんいます。私もその一人なんですが、そんな時こっちの注文をよく聞いてくれるんです。『こういうのはどう?』って。親切ですね。でも絵はむすかしい。あきらめちゃいました。とに角ベレー帽が似合って若くて二枚目で、もてましたよ。売り出しの頃の村上元三先生の『佐々木小次郎』の挿絵とか良かったですねぇ」(4代目桂米丸)

「今村先生は、わたしの知る限りずっと、鈴本のプログラムをかいていらっしゃいますね。もう33年以上になるんじゃないでしょうか。わたしの独演会のプログラムの表紙も全部今村先生です」(5代目故三遊亭円楽)

このように画家仲間より、芸人さん達にいつも囲まれていた。傘寿の会には、500人位の人が集まった。席上、「ぼくはネ。125歳まで生きます。ぼくの人生はこれからです」と話していたが、平成8年8月2日、87歳で没した。

いつも恋してなくちゃ…

『讀切特撰集』(双葉社)表紙(今村恒美画)の写真 ▲『讀切特撰集』(双葉社)表紙(今村恒美画)

通夜には当然芸人さんからの花や姿も多く、そこでお会いした浅香光代さんとは、何回か巻紙の達筆なお便りもいただき、思いがけない再会も幾度かあった。

数年前大先輩の中一弥先生(池波正太郎「鬼平犯科帳」や「剣客商売」などの挿絵。現在99歳の現役。本シリーズ1回目に登場)や濱野彰親先生(松本清張「黒革の手帳」、山崎豊子「大地の子」などの挿絵)御夫妻達と塩原で遊んだ。宿泊した和泉屋旅館はかって大衆文芸の作家や画家達の定宿だったそうで、懐かしい大先輩の作品が保存されていて、その中に今村先生の浴衣姿で横坐りした見事な美人画があって、懐かしく嬉しかった。

冒頭の今村先生の恋人さんとは、ずっと後に「トンコ節」で知られる歌手の久保幸江さんの紹介でお会いしている。

それにしても人生いつまでも夢は持ち続けたいもので、満99歳の中先生も今もって瑞々しい感覚で美女を描いている。これも数年前小豆製品で有名な井村屋さんの会長さんに招待されて三重県の津市へ出かけた。井村さんが私財を投じて建立した津観音の五重塔を拝観する旅だったが、現在津市にお住まいの中先生もお誘いした。中先生は井村さんの奥様を一目見て、「わしのタイプや。描いてみたい」と耳もとでささやかれ、私を驚かせた。「あなた恋をしてる? いつも恋してなくちゃだめよ」。広島の郷里へ引っ込む前に夕食をご一緒した折、私に声をかけてくれた歌手の二葉あき子さんの声を思い出した。

皆元気印の人生の先輩達である。時代が変わって、今村先生のような粋人が少なくなってしまったのがちょっとサミシイ。

 

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