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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(38)

圧倒された「国鉄マン」海老原友忠さんの絵

海老原友忠さんが描いた隅田駅構内のスケッチ

▲海老原友忠さんが描いた隅田駅構内のスケッチ


どんより重く垂れこめた鉛色の冬空に、蒸気機関車の吐き出す煤煙が混ざり合い、昼間だというのに空は一層暗さを増していた。

寒気を引き裂くように、汽笛があちこちで鳴り、貨車を連ねた何輌もの小さな機関車がひっきりなしに往来していた。

東京、荒川区南千住。私の幼い頃の眼に焼きついた原風景のひとつ。貨物専用の隅田駅操車場の光景である。貨車の出入りが頻繁に続くので、浅草方面から、日光街道へ抜ける大踏切は、遮断機が降りている時が多く、歩行者専用に鉄製の歩道橋が架かっていた。通称「ダンダン橋」は私達の遊び場所でもあった。

汽車が下を通る度に、真っ黒な煤煙が歩道橋を包み込む。私達はその煙の中に飛び込み、煙にむせ返る遊びを何回もくり返した。

大林宣彦さんの随筆だったか、これに似たような文章を読んだことがあった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

村にたまに自動車が来ると、追いかけて排気ガスを胸一杯に吸い込んだ…排気ガスからは、文明の匂いがした…というのである。

汽車の煤煙からは、文明の匂いなどしなかったが、煙にむせながら、目をふさいで、束の間猿飛佐助や霧隠才蔵になったような気分になった。

昭和30年頃、私は上野駅のコンコースで人と待ち合わせをしていた。早く着いたので時間潰しにと思い、職美展という文字が見えたので、何気なく覗いてみたが、その中の一枚の絵に電撃的といっていいショックを受けた。そこには、前述した隅田駅の煤煙の空が巧みな筆致で活写されていた。

約束の時間が迫ったので、私は急いで海老原友忠という作者名をメモして帰宅した。近所で親しくしていたSさんという家の御主人が当時隅田駅の助役をしていて、その夜伺ってその話をすると、「あーエビさんね。国鉄では有名な人よ」―とのこと。私は近い将来どうしても、そのエビさんにお会いしたいと思った。―ところが何と翌日の夜、Sさんに案内されて、御本人が突然私の家へ訪ねて来てくれた。

これがエビさんとの初めての出会いだった。背はあまり高くなかったが、がっちりした見るからに意志の強そうな面構えの人で、エビさんは熱心な国鉄労組の一員だった。

二度目にエビさんが現れた時は、自分の作品を数点持参してくれて、何よりも私がショックを受けた隅田駅構内のスケッチを使用した労組のポスターを土産に持って来てくれた。

私の師小松崎茂先生は私同様南千住の出身で隅田駅や汐入という土地に特別な熱い思いを抱いていたので、そのポスターを持って海老原さんを先生の家へお連れした。先生の興奮は私が想像した以上のもので、ポスターの絵の部分を切り離し、直ぐに仕事場の壁に貼って絶賛していた。原画は「西の内」と呼ばれる丈夫な和紙をわざわざ揉んで広げ、皺(しわ)になった紙にコンテチョークでスケッチしたもので、コンテで真っ黒に汚れた手の汚れが紙を汚し、それが煤煙の空を巧みに演出していた。

熱血漢のエビさんは、大正9年茨城県古河に生まれた。尋常高等小学校卒業後、昭和13年国鉄に就職。東鉄隅田駅に勤務。以来(兵役5年を除いて)同駅で定年まで勤めあげた。エビさんは、「あの空の下で働きたい」という強い意志を貫き、管理職の椅子をけって、定年まで現場の転轍手(てんてつしゅ)として貨車に飛び乗り飛び移って旗を振り続けた。

 

洲之内徹さんの年賀状

▲洲之内徹さんの年賀状

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画廊主・洲之内徹の底なしの陰

この海老原さんの画才に惚れ込んだのが「現代画廊」の洲之内徹さんだった。

海老原さんの企画展を洲之内さんは何回も企画し、他にも私が大ファンだった佐藤泰治先生(川端康成や石坂洋次郎の作品や数多くの挿絵を手がけ、学研の学習誌の表紙もすばらしい油彩で長く描いた)の挿絵ではなく、あまり人に知られていない地味な油絵の展覧会も企画して開いてくれて、私もその縁で何回も画廊へ足を運び、画廊主の洲之内さんとも親しくなった。

親しくなった―と思わず書いてしまったが私は一方的に洲之内徹という一人の男の不思議な魅力に取り憑かれた一人だった―ということに過ぎない。

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洲之内さんの長年の友人でもあった四国松山の同郷の作家大原富枝さんが書いているように、「内面から絶え間なくにじみ出るような暗い陰を負っていて、痩身でしかも小柄な身体でいながら、なにか不思議なエネルギッシュな存在感が、独特のインテリジェンスと混合して、つよい印象をあたえるのである」―まさに私もその魔力と呼んでいい洲之内徹という複雑な人間性に初対面から惹きつけられた…。

年月的に言えば、洲之内さんとは亡くなるまで7、8年に及ぶ交流があり、かなり熱して美術論を語り合ったりもしたが、今にして思えば、私は洲之内さんについて深くは何も知らず、また洲之内さんと向かい合うには、私は男として―というか人間としてあまりにも稚なすぎたと今となって思い知らされている。

断片的にしか知らなかった洲之内像を深く知るのは、むしろ洲之内さんの没後のことで、まさに当時を思うと恥ずかしくて顔も上げられなくなってしまう。

洲之内さんは、戦前、非合法活動に身を投じ、のちに一転して自ら志願して、第二次大戦中は中国大陸で関東軍の特務機関員として諜報活動に従事したという。

戦後3度芥川賞候補となり、前述の現代画廊を経営し、『芸術新潮』誌上での美術エッセイ「気まぐれ美術館」の著者として多くの読者を持ち、評論家の小林秀雄をして「当代随一の(美の)目鑑(き)き」と賞賛もされている。

「文学と美術とエロスの混沌のうちに生涯を燃焼した人」という文章を何かで読んだが、没後の新聞でも、「彼の凄絶としか言いようもない女性関係…」と死亡記事には珍しい洲之内さんの隠された陰の部分が書かれていて驚かされた。

再び前述の作家大原富枝さんの文から―「こと、女に関しては、洲之内徹のなかには、悪魔的と言っていい、救いようのない地獄があった、とわたしは思う」―『群像』に発表された四百字詰原稿用紙310枚の長編「彼もまた神の愛(め)でし子か―洲之内徹の生涯」の一節である。更に、「洲之内徹の過去という深い井戸に、測鉛の紐をおろしてゆこうとするわたしの因果な作業もしょせん、底なしの井戸を探ることでしかないだろう」と大原さんの文は続く。

たしかにその生涯のどこをとってみても、洲之内さんの女たちに塗(まみ)れた凄絶な女性関係こそ、「底なし」とはまさに言い得て妙と思う。

3人の息子のいる戸籍上の妻を別にして、大陸へやって来た小劇団の女優あり、田園の中の一軒家に住む未亡人あり、秋田生まれの美女あり、「恋愛の最初から、ただ、この人と一緒に死にたいとばかり思った」という新潟の人妻あり…。そして不変の恋人は絵、という訳だった。四国の旧友たちは「剃刀(かみそり)のスノさん」と密かに呼んだ彼の酷薄な一面を、東京の友人や周りの人々のほとんどが、何かの形で知っていた―というのだが、私は単に私の惚れこんだ画家を何人も取りあげてくれた画廊主として、傾倒していたに過ぎなかったようだ。ある時私は洲之内さんに、「自分にとって本当の良い絵とはどんなものですか?」と聞いたことがあった。洲之内さんは「盗んででも、持ち主を殺してでも自分の持ち物にしたい。そんな絵かな」と冷たく笑っていた。そして自分をいつも「単なる絵好き」と称していた。

画商でありながら気に入った絵を売るのを拒み、客と喧嘩までして守ったという『洲之内コレクション』は、現在仙台市にある宮城県美術館の一隅に展示を代えながら常設コーナーが設けられている。

銀座松坂屋裏にあった古いビルの窓もない小さな一室に「現代画廊」はあった。今では滅多に見ることの出来ない手動式で蛇腹状のエレベーターが懐かしく思い出される。私の性格も人生も何もかもが対極に位置したような洲之内徹さん。そしてその出会いを作ってくれた国鉄のエビさん。エビさんは7年前の平成15年、茨城県古河市で82歳の生涯を終えている。一方、洲之内さんは、昭和62年に他界しているが、そのほんの少し前銀座の地下鉄のホームでばったり出逢った時の笑顔が、今も脳裏に焼きついている。

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