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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(36)

忘れられぬ童画界の巨匠たち

俳句ミニ屏風・鈴木寿雄先生画(展覧会出品作品)

▲日本童画家協会第12回展の案内状


昭和37年12月、第1回「日本童画家協会展」が日本橋白木屋デパート(後の東急。現在は閉店)で開催された。当初は日本童画界の父といわれた川上四郎先生をはじめ、22名のメンバーによるスタートだった。しかし、2回目以後は会の中心となる7人の先生方のグループ展になり、以後日本橋白木屋の暮の名物展になった。全国から各先生方のファンが集まり、特に昭和40年代に入るとファンの熱も急上昇。初日の開店時間にはデパートの入口にファンが集まり開店と同時に5階の画廊めがけて、脱兎のごとく階段を駆け昇る者、エレベーターに躍り込む者、まるで先着順の特売場へでも向かうような感じだった。作品はもちろん初日に完売。常識では考えられない状態が以後何年も続いた。実は事情があって数年間私もファンの群れの一人だった。

ちなみに5階の美術画廊へ一番早く到着出来るのはエスカレーターを駆けあがるのが一番早道とわかった。エレベーターは開店早々はすぐに動かさず扉を開いたまま店員が頭を下げて客を迎え入れているのですでにその頃エスカレーター組は画廊へ滑り込んでいた。

かなり時を経てから、ある年島根県の足立美術館(庭園と横山大観のコレクションで有名)でほぼ全品を買い占めてしまった年もあり、競争は激しいまま続けられた。

出品作家は、武井武雄、初山滋、鈴木寿雄、黒崎義介、林義雄、井口文秀の6会員に、客員として川上四郎が加わっての7人であった。私は幼い頃より川上四郎先生に憧れ、中学2年生の頃、新潟県湯沢町にお住まいの川上先生にファンレターを出し、以来ひそかに私淑して来た。この会が発足してからは、会員すべての先生達ともそれ以前より尚一層親交を深くし、楽しい思い出をたくさん残していただいた。特に鈴木寿雄先生の家へは何回もお邪魔し、江戸っ子というか東京っ子の鈴木先生にはすっかり傾倒し、その親交は、先生の亡くなるまで続いた。先生のお兄さんは日本画家の鈴木朱雀。戦前の野村胡堂の「三萬両五十三次」の挿絵や、講談社の絵本「山中鹿介」も大ファンだった。弟の鈴木寿雄先生はユーモラスな童画で私は夢中になった。外出時の黒のソフトに蝶ネクタイは男の私でも惚れ惚れするダンディ振りで、一度日本橋の古い鰻屋の座敷で御馳走になった時、先生が用を足しに中座した折、仲居さんが、「御一緒の方はどなたですか? すてきな方ですネ」と褒められ、私も鼻高々だったことを懐かしく思い出した。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本童画家協会第12回展の案内状

▲日本童画家協会第12回展の案内状

「俺はネ。画を描くときは、お神楽のリズムを頭に浮かべて描いてるんだテレツクテンテン…」と制作の秘密を打ち明けてくれたが、「桃太郎」の鬼ヶ島の鬼達がネックレスやイヤリングをしていたり、一度教科書の仕事で「桃太郎」のお婆さんが川で洗濯をしている絵で傍らに洗濯石鹸が置いてある絵を描き、問題となったが、私は陰で、ひそかに拍手を送っていた。講談社の絵本(ゴールド版)の「ねずみのよめいり」は舞台を団地にして、時代相をうまくとらえ、これには快いカルチャーショックを味わった。

武井先生の豆本はあまりにも有名だが、すべて会員制。欠員が出ないと仲間に入れない。作曲家の古関裕而先生が、「やっと会員になれました」といって相好を崩していた顔は今も忘れられない。

武井先生は、こうした豆本の会員達を『親類』と呼んでいた。晩年私は長いこと先生と賀状の交換をして来たので、「先生、ボクは遠縁みたいなもんですか?」と聞いたら、普段無口で無愛想な先生が、くすりと笑みをみせ、「うん、うん」とうなずいてくれた。

長野県岡谷市に武井先生の美術館「イルフ童画館」がある。開館早々に出向いたが、イルフというのは、古くない、つまりフルイを引っくり返したものだと知り、これもひそかにバンザイをした。サトウ・ハチロー先生をして世界に誇り得る童画家と言わしめた初山先生はちょっと人見知りをする先生だったが、「地下足袋姿で浅草の裏通り辺りで飲みたい」なんて言いながら、その飄々とした人柄で、私にも色々良くしていただいた。

ある年頃の人達には、先生の絵が小学校の国語の教科書の表紙に多く使われていたので、懐かしく思い出される方も多いと思う。

 

川上四郎先生と筆者(右)(越後湯沢・昭和49年3月)

▲川上四郎先生と筆者(右)(越後湯沢・昭和49年3月)

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思い出深い7人の先生たち

黒崎先生の鵠沼の家は海も近く、庭もかなり広かった。大きな池があり、春などはお弟子さんが大勢集まって摘み草をしたりして楽しむそうで、「春か夏にいらっしゃい」と何回かお誘いいただいたが、それは機会を逸してしまった。ただ、「今度来たら赤飯炊いて御馳走する!」と招かれ、冗談だと思ったら、本当に赤飯が用意されていてびっくり大感激したことがあった。長崎県平戸市生まれの黒崎先生は「別れのブルース」をはじめ数々のヒット曲を残した作詞家の藤浦洸さんと同郷の幼馴染みと聞いている。

黒崎先生は「童研」(童画研究会)という会を主宰し、大勢のお弟子さんを抱えていた。

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お子さんには恵まれず「淋しいもんです」とぽつり漏らされたのを耳にしたが、晩年養子を迎えられ、「いやァ、孫に画室を占領されてもうメチャクチャ」と嬉しそうに話していた顔が懐かしく思い出される。童研に所属するお弟子さんの一人に野水晶子さんというオバサマがいた。御主人も日本画家だったが、小柄で色白の可愛らしいオバサマで、いつも控え目ではにかみ屋で、私もその人柄にはすっかり魅せられていた。ある時野水さんと私で出版社から歌舞伎座へ招待されたことがあった。

先代幸四郎の弁慶、梅幸の義経、富樫は当時の海老サマの「勧進帳」で、私はかなり良い気になって、知ったか振りを発揮したが、後々まで野水さんは「根本センセの解説付きで楽しさ倍増でした」と喜んでくれてホッとした。帰途喫茶店でお茶を飲んだ折、「何ですか甥があんな訳のわからない世界に入ってしまい戸惑っているんですよ」と話してくれて、私は何のことかわからず、聞き流してしまった。少し後、その甥御さんというのがジャイアント馬場さんと知りビックリギョーテンした。野水晶子さん。この方も懐かしいお人である。井口文秀先生は健康を害して、15回展(昭51)を最後に姿を消している。

もっともそれに先立つ昭和48年に初山滋先生は焚き火の火傷がもとで不帰の人となり(76歳)、「初山のオヤジ」と慕って世話をした鈴木寿雄先生も昭和50年に結腸癌でお亡くなりになった。享年71歳だった。

若き日、浅草でサトウ・ハチローと覇を競い合ったこともあったというあこがれの人鈴木先生の死は私には大ショックだった。

私が中学2年くらいから私淑した川上四郎先生はもともと新潟の長岡在の生まれだったが、上京して東京美術学校を大正2年に卒業。一時静岡県の榛原中学校で図画教師となったが学校内の内紛で教頭と衝突して校長の後を追って退職し、教壇を去っている。

大正5年再び上京して『コドモ』『良友』などの児童雑誌を出していたコドモ社に入社し、編集絵画部担当として童画を描き始めることとなった。

大正9年に創刊された児童雑誌『童話』は大正15年7月に終刊しているが、同時代の『赤い鳥』と並び、児童文化史上高い評価を得ている。川上先生が描く表紙や挿絵で飾られた『童話』は今もって郷愁の中に新鮮さを失っていない。

川上先生は大正12年頃から念仏信仰に心が向かい、やがて信仰生活に入った。

戦時中の昭和18年頃から越後湯沢に家族も疎開させ、詩情豊かな作品を発表しつつ、昭和58年に同地で94歳の生涯に幕を閉じた。同年、武井先生も89歳で逝き、黒崎義介先生も翌59年に79歳で鬼籍に入った。残る林義雄先生は、「一人じゃ個展になっちゃうよなあ」と嘆きながらも会場を東急渋谷本店に移し、お一人で会を続けた。私は100歳に手がとどく頃の林先生に親しくお目にかかっている。

お元気なら現在104歳のはずで、先日逆に女婿の著名デザイナー福田繁男先生の訃報を耳にした。

秋風がひとしお身にしみる…。

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