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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(35)

入院生活を明るく彩った8人の天使


私は父親ゆずりで、アルコール類を一切受けつけない体質で、ビールすらダメ。ついでに言うとタバコは吸わず、ゴルフ、マージャン、競馬、競輪、パチンコにいたるまで、すべて無縁で、運転免許証持たず(つまり車に乗れない)、パソコン持たず、夏、冬のスポーツ全くダメという我ながら何という朴念仁だとあきれてしまう。

若い頃、草野球に熱中した時期があったが、それでもおよそ好奇心だけは人一倍旺盛で、映画、演劇、寄席、野球…ラジオ、テレビ桟敷はもとより、観たり、聞いたりは人一倍多く経験してきたように思われる。

私の唯一の取り柄は、身体が丈夫だったということぐらいで、これは両親はもとより、先祖の霊にも心から感謝してきたが、昭和56年暮の深夜、急に胃のあたりが苦しくなり、翌朝までやっと我慢して親しくしていた近所のF医院へ駆け込んだ。

検査の結果、「立派な石(胆石症)です」との御託宣。点滴をしてもらって、その日はひとまず帰宅した。

F院長の計らいで、「手術はどうしても聖路加国際病院で―」と勧められ、早速紹介状を書いてくれて、築地の聖路加で精密検査を受けることになった。12月24日のことで、病院は人で溢れており、手術も順番待ちになった。そして、幸い病状も落ちついていたので、近所のF病院へ点滴を受けに通いながら年を越すことになった。

翌年(昭57)1月24日に私の末弟の結婚式があり、それを済ませ、明くる25日に聖路加へ入院。ここで私は8人の天使(エンジェル)に出会うことになった。病室はたしか15人ぐらいの大部屋で、外科病棟らしく様々な人が入院していた。

私にとっては生まれて初めての入院であり、手術であった。ベッドに案内されるのを待っていたように、その頃、聖路加の「病理学科」に勤めていた宮川さんという女性が、「弟に聞いたので―」と慌ただしく訪ねてきた。宮川さんは当時私が盛んに描いていた「仮面ライダー」をはじめ多くのイラストでお世話になっていたアキレスの運動靴の担当者Oさんのお姉さんだった。さっぱりした気性の美しい宮川さんの出現で、私はいっぺんに入院時の緊張感から解放されてしまった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

 

8人の天使の1人、新庄さん(昭和57年、高尾山で)

▲8人の天使の1人、新庄さん(昭和57年、高尾山で)

 

そして8人の天使との出会いである。皆優しく美しく、私は病気も忘れてしまった程だった。毎日見舞いにきた妻も(昭和63年に直腸癌で急逝した妻も当時はまだ元気だった!)同様に驚き、「こんな綺麗な看護婦さんに囲まれていたら、熱もあがりっぱなしになるだろう」といって、周囲の人を笑わせていた。手術は1月27日に無事に終わり、それから退院までの日々は、夢のように楽しい毎日だった。ようするに鼻の下を精一杯のばしての毎日だった。交互に出入りするエンジェルは―もう古い話だし、手許に残る当時のメモを実名のまま写しとると、チーフの千葉さん、続いて宮崎さん(長崎出身)、内藤さん(新潟・小千谷出身)、中島さん(同・柏崎出身)、新庄さん(北海道・留萌出身)、佐藤さん(静岡出身)、他に工藤さん、杉田さん―この8人の看護師さんのお陰で、私はつかの間多忙な仕事からも解放され、楽しい日を送ることになった。患者仲間の石上さんという若いハンサム青年と私は部屋の全員から温かく遇され、毎朝二人そろって各ベッドを挨拶にまわるのが日課となったが、喜んで握った手をすぐには離さない老人も何人かいた。

日課といえば、同時期、妻の母、つまり義母も同じ聖路加の別棟に肝臓癌で入院しており、私は義母の病室を毎日訪れていた。妻が毎日のように顔を出したのは、私を見舞うとともに、母に会いにくるという目的もあってのことだった。常に私を大事にしてくれて、私にとっては、かけがえのない大きな存在の義母だった。

朝食後、私は毎日義母の病室へ出向いた。

義母は、私が同じ病院にいるということだけで心強いと言って大変喜んでくれていた。

楽しい毎日は実はつらく悲しい毎日でもあった。そして義母はその年6月21日、不帰の人となった。義母との別れは私の心に筆舌につくせぬ大きな悲しみの傷あとを残した。今は八柱霊園の一隅に静かに眠っている。

入院が楽しいという妙な話

私はこの病室で47歳の誕生日を迎えている。入院中の2月8日夜半過ぎ、外が何やら騒々しく、ひっきりなしにサイレンの音が続き、「大きな火事らしい―」といって起き出してしまった人もあったが、これがホテル・ニュージャパンの火事騒ぎで、後の発表で32人の宿泊客が死亡。28人が重軽傷を負う(うち1人3月1日死亡)大惨事だった。そして翌2月9日午前8時45分頃、福岡発羽田行きの日本航空350便DC8型機が、羽田空港滑走路手前300メートルの海上に墜落。この機長の着陸ミスで、死者24人、負傷者150人を出す、これも大きな事故だった。

私の退院は2月10日で、わずか18日間の入院なのに病院の外でも色々な出来事があった。私が退院してしまうと淋しいと言って、同室の患者さん数人が、私の退院の延期を病院側に申し入れたが、却下されて残念がっていたという話をエンジェルの一人から聞いて、私は本当に幸せ者だと、皆に手を合わせる思いだった。そうした訳で、私の退院日は、同室の人達と涙、涙の別れだったが、そんな情況をエンジェル達はにこにこ笑って見ていた。お年寄りが多かったせいもあるが、何年かして滋賀県の長浜市へ帰っていた古川さんという方が、わざわざ逢いに来てくださって、感激した。前述の若い石上さんは、「若旦那」というニックネームで皆に愛されたが、つい先日も遊びに寄ってくれた。毎日見舞いに来た彼の美人の奥様もなつかしく思い出される。近くお二人で遊びに来てくれるという。

石上さんと会えば、まず8人のエンジェルの思い出話から入るのが常で(義母との悲しい思い出もあったが)、入院生活がこんなに楽しかったなんて、何とも妙な話である。

その頃私も仕事をたくさん抱えており、特に講談社から幼稚園絵本の「アニメ名作シリーズ」と副題のついた、世界の名作をアニメ調で描いてくれという要望の絵本を10冊依頼され、毎月1冊ずつ出版されたので、夢中で描いていた。入院中は「ピノッキオ」を描いていたのをうっすら思い出している。この10冊の絵本の裏表紙には、私の写真入りのコメントも掲載されており、私自身にとってもなつかしい仕事の一つとなった。ところでエンジェルの中のお一人、新庄幸恵さんは、私の退院後、数回拙宅にも遊びに来てくれて、何回かデート(?)も重ねた。

新庄さんは、北海道留萌近くの出身だそうで、私は入院の前年(昭56)に封切られた映画「駅―STATION」に夢中になっていた頃で、新庄さんの故郷が、映画の舞台となった辺りと聞いて、二人してその映画の話に熱中した。脚本・倉本聡、監督・降旗康男、音楽・宇崎竜童。北海道警の警察官に扮した主演の高倉健のストイックな男の孤独感が秀逸だったが、数年前に再びこの映画を観る機会に恵まれ、改めてまた、この映画の魅力にしびれた。「直子」に、いしだあゆみ、「すず子」に烏丸せつ子、「桐子」に倍賞千恵子。

別れた妻、犯人の妹、行きずりの飲み屋の女。この薄幸な3人の女の哀しみに惻惻として、胸を打たれた。特に「桐子」という小さな飲み屋で高倉健の膝に倍賞千恵子がもたれて二人っきりで聞く紅白歌合戦・外は吹雪。昭和54年の「紅白」の大トリの八代亜紀の歌「舟唄」が切ない情感を盛り上げて、この場面は深く心に残っている。「留萌」「増毛」「雄冬」といった知らない土地の名が妙に愛しく感じられる。新庄さんも、望郷の思い、それに寮生活の淋しさから私の家へ来てくれたようで、彼女の来宅は、亡くなった妻も大層喜んで迎えていた。その後、新庄さんは札幌へもどり、学校へ入り直して札幌市の保健婦となった。

二人して秋の高尾山へ出かけた思い出も懐かしいが、札幌での学生時代、突然すずらんの花が航空便で送られてきたり、お手紙も何通もいただいており、手許に残る送られてきた学校の運動会の写真も懐かしい。その後、私の方も家内の急逝など嵐に遭遇したような歳月が流れ、交流も途絶えてしまった。佳人よ今いずこ―今回はちょっと恥ずかしいことを書いてしまった。

当時克明に綴っていた日記が出てきて、昨夜は読み返して柄にもなく感傷的になった。

昭和22年に流行した藤山一郎の「夢淡き東京」の一節―「かすむは春の 青空か あの屋根は 輝く聖路加か はるかに朝の 虹も出た…」。聖路加国際病院も新しい建物になり、すっかり様変わりしたように聞いている。

朝の旧館の屋上には人気がなく、誰もいない屋上のトイレで用を足して、一人屋上で深呼吸。眺めると、ビルの谷間から明けゆく銀座の空や、月島の空、はるか東京港の方まで望むことができた。

冒頭に書いた宮川さんや、患者仲間だった石上さんとは、つい先日思い出を話し合ったが、お世話になった(新庄幸恵さんを含め)8人のエンジェルはその後どんな道を辿り、今何処の空の下で暮らしているのやら…。その後のエンジェルの身に思いを馳せ、同時にたとえ半月程にしても同室で親しく交流し、多くは高齢のため他界したであろう、なつかしき人々を思い出しつつ今月はこの辺で―。

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