松戸よみうりロゴの画像

ダイチャンの屋根の写真

 

忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(27)

小金原に昭和がやってきた

スペース

駅舎に電車が停車したような形状のダガシヤダイチャン

▲駅舎に電車が停車したような形状のダガシヤダイチャン

 

ダガシヤダイチャン

昨年7月26日、小金原中央商店街の一角に、何とも奇妙な店がオープンした。名付けて「ダガシヤダイチャン」。オーナーの大村将英さん(48)は各種看板の企画・製作・施工をする1シンエイという会社の専務さんで、会社は柏市西山にある。江戸川区小岩生まれという大村さんは、現在レトロ商品と呼ばれ、その道のマニアも多い昭和時代のテレビキャラクターの商品をはじめ、雑玩具、おまけ、家電、雑貨など、ありとあらゆる物のコレクターとして知られている。その大村さんのかねてからの夢だった店が、ダガシヤダイチャンとして誕生した。

大村さんは当初、廃車となった本物の都電を入手したくて、都の交通局へ問い合わせを続けたが、これは実現されなかった。

「電車が欲しい、電車が欲しい」と思い続けていた大村さんは、ある日仕事先へ行く途中、偶然廃車となった電車と出会うことになる。大村さんの話では、車の運転中にちらりと屋根の一部らしきものが一瞬目の中をよぎったというが、戻って確かめてみると、これが廃線になり、廃車となった日立電鉄の車輌だったという。

交渉を重ね、やっと入手した電車は長すぎたので、半分に切断。大型トレーラーで運び、軽量化、ねじれ防止の補強等々様々な過程を経て、現地へ設置された。

電車は建物とドッキングして、昼はレトロな空間の子ども向け駄菓子屋、夜は大人向けの居酒屋に変身する。前述した通り、元来大村さんの夢としてスタートしたもので、開店当初は土、日曜の2日間を営業日としたが、本業も多忙なので、身体がもたないということで、昨年10月頃から週1回、土曜日のみの営業となった。

冒頭に奇妙な店と書いたのは、電車が表通りから見えるので、知らない人が見たら何とも不思議な光景として目に映るのではと思ったからだが、営業日以外はシャッターが閉じられていて、残念ながら平常は見ることが出来ない。

ちなみにこの日立電鉄というのは、昭和2年開業。茨城県常陸太田市と日立市の都市間輸送を担っていた。常陸太田から鮎川までの18・1キロを走行していて、大甕駅でJR常磐線に、常北太田駅で水郡線(常陸太田駅)に接続されていた。

典型的地方鉄道として活躍した日立電鉄線は、平成17年廃線となり、バスによる代替路線となった。同線を走った車輌は旧営団地下鉄銀座線1200系を含め多様な車輌が運行されたが、ダガシヤダイチャンに収まった車輌は「モハ1003」で、かつて小田急線を走っていた電車だそうで、約80年前のものと聞かされた。

ところで土曜日の昼に行ってみると、ものすごい子どもの数で、やっともぐりこんだ店内で、私は昭和40年代に私自身が描いたカルビーの「仮面ライダー」スナックの袋や、カード用アルバムの表紙などが展示されていて、びっくりするやら懐かしいやら。私の頭は一気に昭和30〜40年代にタイムスリップしてしまった。

駄菓子華やかかりし

平成17年に宮城県村田町歴史みらい館で、私の描いたイラストを中心に「昭和横丁展」という企画展が開かれ、お陰様で好評裡に終わった。その折も廃業した玩具屋さん、駄菓子屋さんの倉庫に眠ったままの商品が取り出され、私が小物玩具店(主に全国の駄菓子屋さん向けのメーカー)用に描いた商品がごっそり展示されて感激したが、今回は点数こそ少なかったが、やはり嬉しかった。

スペース
スペース

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

ロボコンの大きな人形

▲ロボコンの大きな人形

懐かしい看板

▲懐かしい看板

駄菓子と子どもたちで賑わう店内

▲駄菓子と子どもたちで賑わう店内

駅で売られていた茶を手にする筆者

▲駅で売られていた茶を手にする筆者

 

 

 

店内写真

▲左:ウルトラマンティガなど 中央:夜は電車内で一杯 右:「女優鏡」を再現

自慢のコレクションを手に笑顔の大村将英さん

▲自慢のコレクションを手に笑顔の大村将英さん

スペース

小物玩具とか駄菓子屋とか言うと、ちょっと軽く見られがちだが、実は小さな会社であっても、大きな会社の経営者にない気軽で、粋で、洒脱な人が多かった。

当時の私は消化しきれないほどの仕事に追われていたが、小物玩具の世界は主として現金取引が多く、絵が出来上がったと連絡をすると、すぐ飛んできて10万円でも20万円でもさっと現金で支払ってくれて、私には大きな小遣いとなった。

私が一時席を置いていた会社が資金繰りに困ると、小物玩具の元締め格のO商店の社長にいつも融通してもらっていた。

私はO社長と面識はなかったが、ある日金を受け取りに行くことを依頼され、出向くことになった。今は新しいビルに移っているが、その頃のO商店はJR浅草橋駅に隣接していた。小物玩具で埋まっているような店内の一番奥に七輪に網を乗せ、でっぷりした無精ひげを生やした大柄な汚い(失礼)おじいさんが餅を焼いていた。それがO社長だった。名乗るとすぐに餅をすすめられ、醤油をかけた焼き餅を2人で食べながら、少し話し込んだ。

「急ぐ?」と聞かれ、「はい」と答えると、醤油でちょっと汚れている手で用意してあった小切手をつまんで、ポイと無造作に渡してくれた。さすがに現金ではなかったが、額面は1千万だった。

このO社長には、その少し後もう一度驚かされた。詳しいことは忘れてしまったが、商品化の件で私がちょっと便宜を図ってさしあげたことがあった。すぐに私に浅草の割烹「一松」という料亭まで来て欲しいという連絡が入った。大きな料亭で、いつも前を通っているが、入ったことはなかった。

玄関にダブルの背広をりゅうと着こなした大柄の紳士が出迎えてくれた。O社長だった。

当時香港では陰で〈天皇〉と呼ばれていたという噂も充分納得出来た。その夜、私はふぐ料理をフルコースで馳走になったが、貫禄負けは致し方なく、その夜のくわしい事はどうにも思い出せない。

小物玩具のメーカーの社長で、私にとって最も忘れられない人に、丸三商店の田中三郎社長がいる。この社長には筆舌につくせぬ程お世話になった。会社は荒川区にあったが、いつも浅草辺りで逢うことが多かった。

 

スペース

浅草寺観音裏に「松源」という天ぷら屋があり、「ただいま!」と言って入っていくほど、毎夜のように出入りしていた。チイちゃんという娘さんが、養母と2人でカウンターの中で忙しく働いていた。チイちゃんは未婚で、私と同年だった。昔は大きな料亭だったそうで、その頃を知る人が時には顔を出して昔話をしていくのを聞くのが、とても楽しかった。

当時東映関係の版権課長をしていた荒井宗朝氏とは本当によく通った。また、旅も多くした。旅といえば、その頃はテレビキャラクターの最盛期で版権(著作権)取得は壮絶で業者間の競争は熾(し)烈をきわめた。

各版権元には契約業者同士の親睦会があり、例えば「ディズニー意匠研究会」、「虫プロ友の会」、「東映動画いずみ会」、TBSには「ジェッター会」と「ソラン会」、「フジテレビMD会」、ひょっこりひょうたん島の「ひとみ会」、サンダーバード他を扱う東北新社には「とんぺい会」…。これらの会が各々春と秋に2回旅行をするという仕来りになっていた。

私は「ディズニー意匠研究会」以外の会のすべての幹事を引き受けていたので忙しかった。

幹事は日程、旅行先の旅館の手配、参加者の部屋割りまでしなくてはならない。幹事が集まって、次の会は何処にしようかという相談のための旅行もあった。その相談旅行で北陸の温泉地を3泊したことさえあった。

私は酒類を一切受けつけない体質だったので、当初は困った。宴会に次いで麻雀大会、これがほぼ徹夜で翌朝はゴルフへというパターンが多く、麻雀ダメ、ゴルフダメの私などは便利な幹事の一人だったらしく、いつも留守番役だった。そんなことが逆にストレスともなり、前述の丸三商店の田中氏や東映の荒井課長とよくプライベートな気楽な旅をした。

遠く黒部の宇奈月温泉や、鳥取の三朝温泉などではちょっとした顔にもなった。

男の世界とは妙なもので、真面目だと通らないこともある。だいいち、酒も飲めない私を心配して田中氏は浅草のなじみの料亭で芸者遊びのいろはの「い」ぐらいだが、ていねいに教えてくれた。

私の方から会社へ出向いたことは、長い交際の中で数回ぐらいだったが、一度倉庫へ案内され、私が描いた「ひみつのアッコちゃん」香水紙の山に大きな噴霧器で何だか分からない強い香りの液体をもうもうと吹きつけていた。この香水紙が飛ぶように売れた。私は「この香りはどのくらい保つのかなぁ」と余計な心配もしたが、田中氏も笑って答えてくれなかった。

粋で洒脱な経営者たち

丸三商店では今もって忘れられぬ思い出がある。あれは昭和40年代後半だと思うが、丸三では毎年20人程度の新年会が開かれ、ゲストとして毎年よばれるようになった。熱海か伊豆山が多かったが、旅館は毎年一流旅館ばかりだった。何しろ日頃小唄を習い、さらりと料亭で遊んでいる粋人ぞろいである。

私が初めて招かれた時は熱海の大観荘だったか―型通りの宴会が終わり、別室で二次会になった。若い芸妓は皆帰し、三味線の達者な年増芸者さんが2人残った。誘われるままに、私は10人近い輪に入ってしまった。

そこでまた酒となり、輪の順番で都々逸(どどいつ)メドレーが始まった。私は当然棄権せざるを得なかったが、圧倒された一夜であった。仲間に入れないのが恥ずかしく淋しかった。

私は良いなあと思った文句を紙に写し、来年また招かれたらひとつぐらい挑戦しなくては―と一人思い、緊張した。当時のメモはもちろん見あたらないが、その年から何年か続いた丸三商店の新年会を思い出しながら、おぼろげながらいくつかを記してみる。

♪枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 しりながら

♪お名は申さぬ 一座の中に いのちあげたい 方がある

♪妻の寝顔が菩薩に見える なんと綺麗な月明かり

♪何千万ものなかばは女 なぐさめられてるなさけなさ

♪けっきょく最後は瞼を閉じる 女のしあわせふしあわせ

ずいぶん覚えていたはずが、大半忘れてしまった。これだけは覚えておこうと思った都々逸が、口惜しいが皆記憶から消え去っている。

スペース
スペース

夜のとばりがおりると居酒屋に

▲夜のとばりがおりると居酒屋に

昼は電車の中が喫茶室に

▲昼は電車の中が喫茶室に

駅看板

 

車両番号

 

昼は電車の中が喫茶室に

▲毎週土曜日のみ営業 昼の部13時〜17時(駄菓子屋のみ) 夜の部19時〜22時(居酒屋)

 

丸三商店の新年会では、もうひとつ忘れられない思い出がある。あれは熱海の起雲閣という旅館だった。もと実業家・根津嘉一郎、農商務相・内田信也の別邸だったという3千坪の敷地を持つこの旅館で行われた際、夜、田中氏が宿の主人と知己だったらしく、離れの別館で寝るようにすすめられた。噂で聞けば、この別館は1泊15万円ぐらいするという。和風洋室というか、ちょっと狭いぎしぎし鳴るような廊下の先に部屋はあり、ベッドの部屋だったが、ものすごい贅(ぜい)をつくした部屋であり、豪華な装飾が施された格天井(ごうてんじょう)を眺めていたら、眠気などどこかへ吹っ飛んでしまった。

夜半はとうに過ぎていたが、皆のところに戻り、「貧乏育ちなのであの部屋では寝られません」と好意を謝して田中氏と交替してもらった。

実はこの稿を書くにあたり、不況を伝えられる熱海の起雲閣のあの部屋は現在1泊どのくらいで泊まれるのかと好奇心で問い合わせてみた。ところが驚くことに起雲閣は廃業していて、現在は熱海市の所有となり、平成12年より、熱海市指定有形文化財として熱海観光の拠点として公開しているという。

私が眠れず逃げ出した部屋は、日本、中国、ヨーロッパなどの装飾、様式を融合させた独特の雰囲気を持つ名邸ということになっていた。太宰治、山本有三など多くの文人にも愛されたという旅館としての起雲閣も今はない。

▲ このページのTOPへ ▲