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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(23)

とにかく巧かった…「幻の歌姫」西村つた江さん


昭和31年、第7回NHK紅白歌合戦が、東京宝塚劇場で開かれた。司会は紅組・宮田輝、白組・高橋圭三の両アナウンサーで、この年は白組の勝利で終わった。

この夜、「横浜(ハマ)の谷間」という歌で紅組から登場したのが、今回の主人公西村つた江(後に香川万知子)さんである。

そもそも紅白歌合戦の第1回(ラジオ)は昭和26年からの放送で、1月3日午後8時から9時までの1時間、正月向けの単発番組として放送された。当初NHK側では毎年放送するようになろうとは想像もしていなかったという。

それが予想外の好評で、1回から3回までは放送会館第1スタジオ。4回目は日劇に移り、それまでは正月特別番組だったが、昭和28年から大晦日の夜の放送となり、はじめてテレビとの同時放送となった。

昨今、紅白に出場したのとしないのとでは、その後の出演料も大きく変わるような噂を耳にしているが、ともあれ、流行歌手にとって、紅白出場は最高の栄誉であり、様々の批判もあるが、大晦日の国民的行事と言われるまでに定着しているのは皆様御存知の通りである。しかし、前述の通り初期の頃はそれ程でもなく、歌手にとっては暮れから正月は稼ぎ時でもあり、たとえば当時人気絶頂にあった岡晴夫などは地方公演などで引っ張りだこであり、紅白には一度も出演していない。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

 

 

抜群の歌唱力を持っていた西村つた江さん

▲抜群の歌唱力を持っていた西村つた江さん

 

人智を超えた「縁」と「運」

さてキングレコードに在籍した西村さんは歌唱力抜群。それも日本調よし洋物よしのすばらしい歌手だった。それもそのはず西村さんは作曲家の大村能章(「野崎小唄」「明治一代女の唄」「旅笠道中」など)に師事し、門下の秘蔵っ子として志望者3000人の中から選ばれた3人の中の1人としてキングレコードに入社した。

デビュー曲は昭和29年7月の東映映画、大友柳太朗、高千穂ひずる主演「追撃三十騎」の主題歌だった。レコードのA面は津村謙の「鶴姫道中」で、西村さんはB面で「恋の夜風」を吹き込んで歌手の仲間入りを果たした。

当時を知るキングの関係者の話では、むずかしい歌ができると、「西村に歌わそう―」といった例が多かったそうで、その卓越した歌唱力は、誰もが認めるものであった。

三橋美智也の歌で大ヒットした「おんな船頭唄」は当初西村さんのために作られたそうだが、たまたま三橋美智也が歌うことになり、三橋の大ヒット曲となった。西村さん御本人はさっぱりした気性なので、「私が歌っていたら、あんな大ヒットにはならなかったわよ」と今となっては何の屈託もないように笑っているが、歌謡界のこうした裏話は数限りなく存在する。先頃牧村三枝子が西村さんの「おそかった」という歌をカバーしたCDを出したが、当時の西村さんの歌と聴き比べて、西村さんの歌の巧さを再認識させられた。

あの頃の西村さんの歌を聴くと、これらの歌がどうして大ヒットにならなかったのか不思議にさえ思える曲がたくさんある。

先日、昭和ロマン館にグループで来館したお一人が「西村つた江! 巧かったねぇ。良かったねぇ! 美空ひばりなんか目じゃねえよ」。

当時を思い出して興奮して話すその人の話を聞いて、私も懐メロファンの一人として、こうした熱烈なファンもいたんだと思ってうれしくなった。

歌の世界にかぎったことではないが、人生には、どうも『縁』とか『運』とか人智では計り知れない何かがあるように思えてならない。よく知られているエピソードだが、前述の岡晴夫は、昭和14年の「国境の春」でデビューをし、戦前もかなり多くのヒット曲を送り出した。特に戦後の昭和20年代はヒットに次ぐヒットで、戦後の歌謡史に大きな足跡を残した。

昭和23年、小畑実のために用意された「憧れのハワイ航路」をどうしても自分が歌いたいと会社に熱望し、岡のために用意された「波止場シャンソン」と交換。「憧れのハワイ航路」は岡晴夫の歌声で一世を風靡したのは、皆様御存知の通りである。

岡人気にかげりが出はじめた昭和20年代の終わり、キングで人気挽回のために用意した曲を蹴って岡晴夫はキングを離れた。その用意された曲が「お富さん」で代打の春日八郎がその曲でホームランを打つことになる。さらにマーキュリーレコードに身を寄せた岡は昭和30年にコロムビアレコードに移るが、マーキュリーで岡に夢よもういちど、として用意した歌が「かえりの港」で、ここでも代打として起用された藤島桓夫が歌い大ヒットとなる。

こうしたエピソードは書き出したらきりがないが、予定通りの人が歌っていたらどうなっていたことか、これは神のみぞ知る―といったところである。

 

左から津村謙さん、西村つた江さん、林伊佐緒さん

▲左から津村謙さん、西村つた江さん、林伊佐緒さん

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西村さんが生まれ育った浅草田島町は、現在「西浅草」というつまらない地名になってしまったが、昭和10年代には田島町芸人横町と呼ばれ、手許にある当時の芸人地図を見ると、この一角には、浪曲師、漫才師、コメディアン等々驚くほど多くの芸人さんの家が軒を連ねていた。その中の一軒、砂川捨勝―これが西村さんの父君で、西村さんはこの地で生まれている。砂川捨勝師は関西の捨丸と同じ流れの正統派の漫才師で、砂川派の東京支部長として活躍をした。母君の千代さんは京都の出身で三味線の名手として知られ、祇園千代子の名で父君と共に舞台で活躍した。

「もう帰ろうよ」で人気者だった千代若さんはじめ、多くの東京の漫才師の皆さんが出入りしていたという。

 

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西村さんを探して…

歌が巧すぎたせいか、とにかく大ヒット曲に至らなかった名唱を多く持つ西村さんだったが、昭和39年5月、茨城県大洗出身の阿部鬼八郎さんというすばらしいパートナーを得て結婚ということになった。東京っ子らしく神田明神で挙式をしたという。

昭和40年代に入り、西村さんは思い切って芸能界を引退することになった。それまではキングレコード一筋。快く引退を承知してくれた当時の町尻社長はもとより「皆さんに可愛がられ本当に良い会社に入って良かった」―と西村さんは今も感謝している。

実は20数年前、幻の歌姫として西村さんの熱心なファンである懐メロ仲間のKさんから、『ぜひ消息を調べてほしい…』と依頼された。キングレコード本社をはじめ、なつメロ会の人々などいろいろ連絡をとってみたが転居していて、その折は連絡がとれず断念せざるを得なかった。

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スペース 西村つた江さん(左)と筆者

▲西村つた江さん(左)と筆者

本紙の連載で『浅草』の思い出話を書いた折、二十世紀が丘にお住まいの栖山登志子さんという方から御連絡をいただき、栖山さんとお会いして思い出話に花が咲いたが、幼馴染みで仲良しだったという西村さんの噂が出てびっくりしてしまった。栖山さんからも「元気でいてくれたら死ぬまでに、も一度逢いたい―」と切望され、私は再度西村さん探しに挑戦。懐メロファンのYさんに協力していただいて住所を尋ね当てることができた。長い歳月を経て再会した西村さんと栖山さんは大感激で、今また親しく交流をしている。

芸能界に身を置いて、華やかな脚光を浴びながら、不幸な晩年を迎えている多くの例を見たり聞いたりしているが、西村さんは、優しい御主人とお子様とに恵まれ、本当に幸せな日々を送っている。そして今、西村さんは、さっぱりした下町育ちの人柄も愛され、何よりも昔からのマニアと呼んでいいファンや、新しいファンも増え、多くの熱い眼差しを一身に浴びている。

ファンによるマニアックな西村さんのカラオケもかなり揃ってきて、新宿大久保の「昔のうたの店」、巣鴨の懐メロスナック「カロママ」、また、新井薬師の「テアター」などで愛唱されている。私もよく一緒に出かけるが、飾らないお人柄でますますファンになった。因みに西村さんが最初師事した大村能章のお墓は八柱霊園の入口近くにあり、師の小松崎茂、家内の実家、友人関係のお墓も同霊園にあるので帰りがけによく手を合わせている。『野崎まいりは屋形船でまいろ』という「野崎小唄」の一節が能章孫一同という名で刻まれた大きな石碑が建っている。

(一部敬称略)

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