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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(19)

若き日 苦楽をともにした横沢彪さん


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

♪別れと思えば 涙になるが/巣立つと思えば わく力/たよりなくとも 達者でいると/いつも思って 暮らそうよ

昭和17年春、当時の季香蘭が主演した満映映画「迎春花」(インチュンホウワ)の主題歌で、題名は「別れ鳥」。霧島昇と二葉あき子が歌っている。

3月、4月は別れと旅立ちの季節とよく言われるが、この時期になると、いろいろ名曲もあるはずなのに、私はいつも幼い日聞き覚えたこの歌をついつい口ずさんでしまう。

冒頭から随分大昔の話を持ち出してしまった。

もっとも今回の主役横沢彪(たけし)さんが、フジテレビを代表するプロデューサーとして大活躍をしていた頃、たしか平成元年暮れだったかフジテレビ開局30周年記念番組として二夜連続の大作ドラマ「さよなら季香蘭」(沢口靖子主演)を製作している。 スペース

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若き日のさんまさん、タモリさんとともに。右端が横沢さん

▲若き日のさんまさん、タモリさんとともに。右端が横沢さん

 

私達の世代は国策によって洗脳され、少国民と言われながら、軍国少年として理屈抜きに中国大陸に強いあこがれを持たされてしまった世代である。冒頭の歌など、もはや御存知の方も少ないと思われるが、育った時代と環境のせいで当時の『大陸メロディ』と呼ばれた歌の大半は私の頭に強く刷りこまれてしまっている。

さて―

横沢彪さんは、昭和12年生まれ。昭和37年に東大文学部社会学科を卒業、フジテレビへ入社した。実は、この横沢さんと私は一時期仕事で苦労をともにしている。

横沢彪さん

▲横沢彪さん

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「とびだすえほん」を製作

横沢さんとの出会いを書く前に、ちょっと自分自身のことを書かせていただくことにする。

昭和33年2月24日、KRテレビ(現在のTBS)で「月光仮面」がスタートした。テレビの草創期の作品だが、この大ヒットの頃から私はテレビのあらゆる子供向け番組のキャラクターグッズ専門のイラストを手掛けるようになった。いち早くそうした流行に着目した紙製玩具のメーカー、小出信宏社の社長・小出信一氏に目をつけられ、以来私の人生はテレビのキャラクター漬けといっていいようなものになってしまった。

昭和40年の春、小出信宏社の企画室長だった六郷僚一氏が、折から発足したばかりの竜の子プロの吉田竜夫氏に事実上引き抜かれた形になり退社することになった。社の客分扱いとして私は社員旅行にも同行、また社の草野球チームの一員にも入れてもらっていたので、社長はじめ社員の皆さんにも口説かれて一年間だけという約束で初めてのサラリーマン生活に入った。実は前年秋(東京オリンピックの年)、私は結婚したばかりだったので、妻のためにも一年ぐらい固定収入のある生活が望ましいと思う配慮―といえば聞こえは良いが、私自身の安易な思いもあった。その年の暮れにアメリカへ旅行をさせてもらい(昭和40年当時海外旅行もまだ大変な時代だった)、一年という約束が後任に適する人に恵まれず、毎年毎年退職は聞き入れてもらえず病気がちの社長の代行で逆にテレビキャラクターとの縁が益々深くなり、社での居心地も良いままに結局6年も居てしまった。

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一方横沢さんはといえばフジテレビの事業局に在籍し、フジテレビで放映している番組の版権業務などの仕事のサブを務めたりしていた。各テレビ局とも春、秋の番組改正時には、その版権獲得に群がる執拗な業者との対応に追われるが、それが一段落すると、業務はちょっと暇な時を迎える。そこで事業局事業部ではその頃の横沢さんの上司だった辻勝三郎部長(故人)が出版をやろうかと言い出した。

当時の事業局の中には様々な業種が入っていて、経営不振で喘いでいた新国劇の劇団まで、同室に机を並べていた。

辻部長は作家あがりの人で、若い時は向田邦子さんとも親交があったという。出版への意欲は強く、絵本を出したいということになった。しかし素人の集まりで絵本を作っても、専門の出版社にかないっこない。何か特色のある他では出来ないものを作りたいということで、『とびだすえほん』を出そうということになった。私が在籍した小出信宏社は当初京成高砂の駅近くにあり、小さな会社だった。

小出社長が先見の明のある人で、早くからマスコミ物の流行を予見し、「鉄人28号」の版権窓口を引き受けたことから、業界の一部には名を知られるようになった。

昭和20年代の初め、ペラペラの今から思えば単純な『とびだすえほん』(昔話)を発行したことがあり、そんな縁もあって、このフジテレビのとびだすえほんの外注先に選ばれた。この辺りの細かい経緯(いきさつ)は長くなるので省かしていただくが、急に決定した絵本の企画のチーフを私が受け持つことになり、フジテレビ側の事実上の担当者が横沢さんに決まった。

当時小出信宏社の営業部は日本橋人形町に移り、私達の企画室も人形町のビルで新しい生活に入っていた。社の近くの旅館に泊まりこみ、最初の3冊の企画に入った。

横沢さんはスポンサー筋のはずなのに実に細かく気配りをして下さって本当にお世話になった。「たのしい童謡」「どうぶつのくに」「ピンポンパンえほん」。たしかこの3冊が第一期のものと記憶するが、内職で1冊分の中味5場面を糊づけされたものが届くのだが、不慣れのため糊がはみ出て頁がくっついてしまい、使いものにならないものが多く、横沢さんと私の陣頭指揮で社員大勢で『検品(けんぴん)』と称して、一頁一頁を開いて確認する作業をした。これにはくたくたになり、夢にまで見るような苦しい思いをした。

横沢さんの方も人手は足らないし、配本した本は売れないしで、相当な苦労の連続だったという。やっと作業している授産所の方も慣れて来て、折からの「ウルトラマン」のブームで、漸く本の売れ行きも順調に流れはじめた矢先、フジテレビ上層部の意向で突如出版部は解体することになった。周知の通り、フジ・サンケイグループという名称が示すように、もともとフジテレビには、サンケイグループという出版部門が存在し、こちら事業部の出版部は暫定的に作られたものだったので、あっけなく幕ということになった。小出側にすれば、生産部門もどうにか流れに乗って来たし、営業的にも中止する訳にはいかず、窮余の一策として、小出信宏社の営業部を独立させて「万創」という会社を立ち上げて『とびだすえほん』を続けることになった。

 

名プロデューサーへ

横沢さんはサンケイグループに出向ということになり、しばらくは、辛酸をなめる毎日を送られたように伝え聞いている。

横沢さんのその頃を思うと、いつも「臥薪嘗胆」という古語を思い出すが、再びフジテレビに復帰し、プロデューサーとして「ママとあそぼう! ピンポンパン」(昭49)に続いて、「スター千一夜」「THE MANZAI」「おれたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などをプロデュースし、タモリ、たけし、さんまさんなど多くのスターを世に送り出し、その画期的な活躍は社会現象にまで発展する勢いだった。

昭和63年には編成局専任局長ゼネラルプロデューサーに就任。陰で『天皇』とか『帝王』とささやかれたりもした。平成7年、フジテレビジョン退社後、吉本興業に入社。常務取締役として東京支社長も務めた。

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スペース 当時作った「とびだすえほん」と筆者

▲当時作った「とびだすえほん」と筆者

横沢さんの人間としての凄さは、こうした華麗ともいえる経歴を持ちながら常に腰が低く温かく、人に接する態度に変わりがなく、その懐の深さに心から畏敬の念を抱いている。私の方は「万創」が大きく発展した時点で強引に退社し、6年間のサラリーマン生活におさらばして、本職のイラストレーターに戻った。驚くほど高額な役員報酬を辞退しての退社だったが、私が退社後2年余りで万創は放漫経営がもとで倒産してしまった。

横沢さんは今ちょっと健康を害しているが、先日は電話で明るい声を聞かせてくれた。横沢さんの快気を今心から祈っている。近いうちお会いしましょう! 近いうち!

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昭和ロマン館

 午前10時〜午後5時開館(入館は4時30分まで)。日曜・祝日休館。問い合わせは、1341・5211昭和ロマン館。