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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(12)

「激動期育ちの会」の画家達(上)


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

銀座の並木通り、新橋寄りの資生堂本社ビルの並びに、「川上画廊」というギャラリーがあった。その画廊で、昭和50年代半ば頃から、毎年6月に〈激動期育ちの会〉という展覧会が開かれてきた。

メンバーは、日本画家、イラストレーター、漫画家、版画家等々多彩だったが、明治、大正生まれの人だけで構成され、激動の昭和を生き抜いてきた―というのが、共通の事項だった。実は、前回本欄で紹介させていただいた森熊猛先生も、創立メンバーのお一人だった。私の師、小松崎茂先生も招かれて、2回目から出品することになった。

ちなみに、その年の案内状によると、「隅田川景を描く」(小松崎茂)、「世相風俗を描く」(越野周二)、「汽車・機関車・電車を描く」(中村信生)、「河岸を描く」(中島章作)、「子供と世相を描く」(花沢徳衛)、「女工哀史を描く」(松葉豊)、「文壇の事件を描く」(森熊猛)、「兵隊を描く」(山本政雄)…といった紹介が並んでいる。

この会は定例化して、出品者の知己である定年後の編集者やファンの人たちも毎年楽しみにして集まるようになり、連日昔話に花が咲いた。

松葉豊(ゆたか)先生は紅一点の女性であり、水墨画で昭和史の暗部をダイナミックに描いたかと思うと、軽妙なタッチで河童を主人公にした河童村のユートピアの絵等も出品し、人気を博した。大勢の女性のお弟子さんに囲まれていたが、その頃から都会生活を捨て、福島の白河高原牧場へ移り住み、農耕生活を送りながら、日本画の大作も描いていた。高齢にもかかわらず、今もって若々しく、強い信念に生きる女流画家で、後年、当時新松戸にあった昭和ロマン館やギャラリーウインズでも何回も展覧会を開いてくれた。

私は、こうした大先輩にお会いできるのが楽しみで、会期中はよく画廊へ足を運び、各先生方とも親しくなった。

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ビューティー・シンデレラ 1997年/高橋真琴

▲ビューティー・シンデレラ 1©997年/©高橋真琴

 

花沢徳衛さん(左)と筆者

▲花沢徳衛さん(左)と筆者

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名優・花沢徳衛さんも参加

中でも異色のメンバーの一人が花沢徳衛さんで、干支で二まわり上の花沢さんは私の父と同年であった。

花沢徳衛さん―映画やテレビの名脇役として活躍した方で、読者の皆様もこの顔をなつかしく思い出して下さる方も多いと思う。

花沢さんは明治44年、神田区福田町(当時)の生まれで、大正12年、渋谷の大向尋常小学校を5年で中退。指物師(さしものし=机、たんす等の細工をする職人)として修行をし、昭和7年には花沢美術家具研究所なるものを設立している。しかし、その翌年には大阪へ行き家具職人をしながら洋画家への夢を捨てきれず、斎藤与里に師事し、昭和11年頃まで絵の勉強に打ち込んだ。けれど、絵で身を立てる困難さを自覚し、他に何か芸術的な道はないかと模索(花沢氏談)。俳優の道へと転じた。

戦後、「真空地帯」(昭27)、「蟹工船」(昭28)、「ともしび」(昭29)などの独立プロ作品に出演。個性的なキャラクターで、名脇役としての地位をかためていった。

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私が初めて花沢さんを(銀幕の上で)知ったのは、昭和30年、東映の「終電車の死美人」の刑事役あたりからで、これが「警視庁物語」の題でシリーズ化されて大ファンとなった(この「警視庁物語」でブルーリボン賞とホワイトブロンズ賞を受賞している)。テレビでもNHKの「おはなはん」での祖父役で人気を高めた他、多くの番組に出演。〈激動期育ちの会〉で親しくなった頃は70歳頃だったが、名脇役として引っ張りだこの忙しい毎日を送っていた。

手もとに珍しいテープが残っている。

当時ラジオ関東(現在のラジオ日本)で、この会の取材を申し込まれ、「風俗探訪・昔なつかしアッパッパ」という30分番組で放送された。花沢さんが苦笑しながら、「どうも展覧会をラジオで紹介するなんて本当に難しい」と言いながらも、各出品画の情景を巧みに説明し、自分の幼い頃の思い出をまじえて、実に面白く話をしてくれた。

放送では、バックに大正期のはやり歌や昭和期の流行歌、物売りの声等も挿入されて、楽しい番組ができあがった。「アッパッパ」というのは、当時婦人が夏に着る簡単服を指し、花沢さんの蘊蓄(うんちく)に引き込まれる思いだった。

俳優として顔が売れているので、花沢さんの作品はよく買い手がついた。

花沢さんは、あのいたずらっぽい大きな目をくるくるさせ、半ば照れながら、そっくりその代金で森熊先生の作品を買っていた。

森熊先生については前の回に記したが、会の最長老でありながら、いつもそのシャイな人柄から自分の絵には低すぎる値段をつけるので、他の人たちも随分困っていた。

私は知らなかったが、一時画商が買い占めに来ていて、森熊先生の絵は本人の知らないところで、かなり高値で取り引きされていたことを何回か耳にした。

懐かしい歯切れのいい東京弁

さて、花沢徳衛さんに戻るが、親しくさせていただいていたが、2年程後、「根本さん、私も年だから来年は私の代わりに出品してくれないかなぁ」と声をかけられた。「とんでもない。ボクは昭和生まれですから」と辞退すると、「大丈夫、大丈夫、その貫祿あるアタマだったら…」と髪の薄いのを冷やかされ、何よりも森熊先生はじめ他の先生たちにも賛同され、仲間に入れていただくことになった。師の小松崎先生も大層喜んでくれた。

結局、花沢さんとは喫茶店での差し向かいでの長時間のおしゃべりを含め、20回前後のお付き合いだった。

戦前、京都映画研究所で講師をつとめ、音声学を講義したそうで、その声と話術にはいつも感心させられた。

「おとといの事は忘れても60年前のことははっきり覚えている」「昔は良くなかった。昔は良かったなんて言ったことは一度も無い。ただ激動の日々を夢中で歩いてきただけ」「渋谷の神泉あたりでも、晴れれば馬糞(まぐそ)っぽこり(荷馬車や軍馬の往来が多かった)、雨が降ればお汁粉のようになる道」という話や、渋谷に住んでいた少年時代―「俺きょうは東京へ連れてってもらったんだぞ。須田町というところに広瀬中佐の銅像があって…」なんて友達に自慢したとか、いつも話がつきず長い時間を過ごした。酒を飲めなかった花沢さんは、「何しろ小学校中退なんだから、遊んだという覚えはないなあ」「私には青春がなかった。京都へ移り、京極とか河原町あたりで初めて青春の真似事をした。もう26ぐらいになってからね」。そして、映画やテレビ、特に時代考証の話になると、「あきれるばかり」と言って、熱っぽく間違いについてしゃべり続けた。たった一人の昭和生まれとして仲間に入ってからも、先生方には随分可愛がっていただいた。その花沢さんも平成13年、89歳で不帰の人となった。 スペース

スペース 隅田の川風(昭和11年当時をしのんで)/小松崎茂

▲隅田の川風(昭和11年当時をしのんで)/小松崎茂

私と前後して「少年王者」「少年ケニヤ」の山川惣治先生も会に加わった。

山川先生が何年出品を続けたか、はっきり覚えていないが、とにかくこの会のお陰で晩年の山川先生とも多くの思い出を作ることができた。横尾忠則さんは山川先生の大ファンで、御夫妻で小松崎家へ来た時は、小松崎先生と私が話す山川先生の思い出話をうらやましそうに聞き入っていた。 最晩年の山川先生は不幸が重なり、あまり幸福とは言えなかったが、にこにこ笑顔を絶やさない好々爺ぶりが目に焼きついている。

山川先生については次回でもう少し思い出を書かせていただくことにする。

山川先生の没後、山川先生の近くに住み、色々面倒を見てくれた抒情画家の高橋真琴さんを私が招いて会に加わっていただいた。

ボールペン一本を頼りに東京の街を克明に描いた酒井不二雄先生。妖艶な女性を描いて多くのファンを持つ堂昌一先生…。毎年6月が楽しみだった。

バブル崩壊とともに思い出だけを残し、川上画廊も姿を消した。

花沢さんの歯切れの良い東京弁が懐かしく思い出される。まさに一期一会―往事渺茫(びょうぼう)夢の如しである。

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