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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(11) 

激動の時代を生きぬいた漫画家・森熊猛


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

「まあよくここまで来たと思っています でも時が来ました 天命に従って一足お先にということになりました 君はゆっくり ゆっくりあわてることはありません ではこれで GOOD・BYE 猛」

敬愛する漫画家・森熊猛先生から、このような自筆の葉書とともに、最晩年に実現した画集『マンガ一〇〇年 見て聞いて』(白樺文学館多喜二ライブラリー)が一緒に送られてきた。

驚いて御自宅に連絡すると、先生はすでに天国に籍を移しており、まさにこの度の葉書は冥土からのお便りであり、大きなショックを受けた。

平成16年9月17日没。享年95歳であった。

それにしても自らの死期を悟り、細々と自身の死後についてもきちんと整理をしていたことは、見事という他はなく、「流石に森熊先生!」と改めて感服もし、懐かしさがつのり、在りし日の思い出の数々を偲んでいる。

弾圧の中で生まれた愛

森熊猛氏は、今何かと世間を騒がせている現在の夕張市真谷地に明治42年4月1日に生まれている。

大正13年、15歳の折に札幌の北九条尋常高等小学校に転校、4月、北海中学に進学した。

昭和5年頃より、プロレタリア文化運動に参加。札幌漫画研究所を開設したりしたが、左翼的な漫画を描いたために、昭和6年、22歳の折には特高刑事に連行され、1か月の拘留を受けたりしている。

その後上京して、新人漫画家として様々の苦労をし、その中で、同じ画家志望の伊藤ふじ子と知り合うことになる。

17歳で山梨から上京したふじ子は、当時22歳。上京して画家を志しての5年間、この短い人生のなかで、はかり知れない苦悩と悲しみを経験した。その悲しみとは―

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森熊猛・ふじ子夫妻

▲森熊猛・ふじ子夫妻(昭和9年5月。ふじ子さんはこの時、長男を妊娠していた)

 

「森熊ふじ子、旧姓伊藤ふじ子。その人の容易ならない青春時代を知って以来、なんとかして会いたいと願っていた。しかし、会って話を聞くだけでなく、それを文章にすることをなりわいとしている人間として、ふじ子さんの逡巡や懊悩(おうのう)を思い、わたしは心臆した。峻拒されることがこわかった(以下略)」

これは、ふじ子さんの死後、森熊先生が刊行した『寒椿―森熊ふじ子遺句集』に作家の澤地久枝さんが寄せた一文である。

澤地さんに『昭和史のおんな』(文藝春秋)上下2冊の労作がある。澤地さんはふじ子さんに会いたがっていたというが、昭和56年4月26日、ふじ子さんは蜘蛛膜下出血で急逝した。享年70歳。その半生については、澤地さんがふじ子さんの没後『続昭和史のおんな』(同)に「小林多喜二への愛」として発表した。

伊藤ふじ子は同郷の望月百合子を頼って上京。百合子はアナーキストの石川三四郎と一緒に暮らしていたので、そこに女中として住み込み、新宿にあった小林万吾の絵の研究所に通っていたという。その後、ふじ子もプロレタリア美術研究所に通うことになり、そこで作家の小林多喜二と知り合って、愛し合うようになった。『蟹工船』で知られるプロレタリア作家・小林多喜二が、昭和8年2月、街頭で演説中に検挙され、その夜、築地署で拷問の末、虐殺された話は、昭和史の中でも暗い事件として語り継がれているが、ふじ子は特高警察の目を逃れて潜伏生活を続けた多喜二の妻として、彼を支え続けてきた女性だったという。

昭和9年3月18日の夕方、特高に拘束されていたふじ子が猛の部屋のドアをノックして「クマさん、今日やっと出されたのヨ、今晩とめて…」と訪ねてきた。

こうして猛はふじ子さんのすべて(小林多喜二とのこと)を理解し、大きな愛情で包み込み、結婚生活に入った。
御夫妻は戦後、温かい家庭を築いたが、ふじ子さんの過去の秘密は御長男(私と同年)にも話さなかったという。

小林多喜二図

▲小林多喜二図 小説『蟹工船』(森熊猛・白樺文学館多喜二ライブラリー蔵)

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最愛の妻をなくして

私が森熊先生と親しくなったのは、ふじ子夫人が亡くなった少し後のことで、私もその後、妻をがんで亡くしたので、二人でよく慰め合った。二人とも酒を飲まなかったので、いつも喫茶店で長時間話し合った。

「参っちゃうよなあ。女房の遺品に囲まれて暮らしているんだから…。勿体ないからと言って、履かなかった新品の下駄なんか見ると、たまらなくなってネ」「女房は妊娠しやすい体質だったから、多喜二との間にも何回かそんなことがあったと思うよ…」

コーヒーをすすりながら、人には言えないような事柄まで何でも打ち明けてくれた。

そんな時の森熊先生は、本当に亡き妻への熱い思いで目をうるませていたのが、今も懐かしく思い出される。

肝心のことを書くのを忘れていた。森熊先生は何ともハンサムな人で、Gパンにリュック姿のラフな姿で現れても様(さま)になっていたし、蝶ネクタイでパリッとした姿で現れても常に人目を引くような素敵な人だった。大変シャイな性格の人で、追っかけらしい年配の女の人がいても、まったく無視して気付かぬふりをしていた。

陰で女性陣がよく「素敵ネ」とささやき合う声を何度も耳にしている。

「東京へ急用で行くことになってサ。ところが電車賃がない(先生は戸塚に住んでいた)。そんな時、女房はプイと出かけ〈お父さんハイ〉といって、金を渡してくれたけど、あいつどこで都合つけてきたんだろう。有り難かったなァ」

そんな話も聞かせてくれた。

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森熊先生はいつもひょうひょうとしていて、そんな苦労はあまり感じられなかった。晩年、俳句に打ち込んでいたふじ子夫人は、写真を見る限り幸せそのもので、若き日、日本がそんな時代だったとはいえ、官憲の目を逃れて小林多喜二との愛に生きた情熱の人とはとても思えない。

多喜二、ふじ子と共に眠る

そして何といっても、森熊猛の男としての真骨頂とも言えるエピソードは、結婚当時、妻が運んできた所持品の中にあった多喜二の遺品と考えられる品々を全て保存しておくことをいとわなかったことで、その中には何と多喜二の分骨さえも含まれていた。

「根本君、多喜二のお骨の処分には正直困ったヨ。伜(せがれ)にも話していなかったことだしネ。結局、家内が若き日愛した人の大事な骨だから、家内のお骨と一緒にして納骨することにしたヨ」

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スペース 小渕恵三図

▲小渕恵三図 平成改元(森熊猛が親交のあった小渕氏に贈る)

私はこの話を思い出すたびに目頭が熱くなる。 澤地久枝さんは、「…そして、妻亡きあと、おのれ一人の決心で、多喜二の分骨を妻の遺骨へまぜ、埋葬をした夫の思い―。尋常の男にできることではない」

さらに、また―

「森熊氏が伊藤ふじ子の前に姿を見せたとき、ふじ子の心には虐殺された男の面影がノミで刻んだように深くしるされていた。そういう心を抱いている妻をかかえとった森熊氏は、いわば先住者のいる女性と結婚したことになる。死後の世界を信じないとしても、森熊氏がいつか土へ還ってゆくとき、そこには遺骨になることで多喜二と一つになれた一組の男と女としての妻がいる。ふつうの男にはとうてい耐えられないことではないかとわたしには思われる」とも書き、土の下で愛した男性二人に抱かれて眠るふじ子さんに、「あなたは男運のいい方だったのね。よかった」と記している。

このような人柄の森熊氏と晩年の20年余を楽しく交流できたことを、私はとても幸せに思っている。

思い出はつきないが、昭和天皇が御危篤におちいった時、私は漫画家のうしおそうじ氏(本名・鷺巣富雄。Pプロの社長として「宇宙猿人ゴリ」、「ハリスの旋風」、実写版「マグマ大使」、「快傑ライオン丸」等を製作した)の紹介で、「昭和天皇画帳(イラストで綴る昭和の歴史)」という豪華本のイラストと編集を引き受けた。

森熊先生をはじめ、師の小松崎茂先生など親しい人の協力により、定価2万8千円の豪華本が完成した。なにせ昭和天皇の崩御の前に完成してほしいと言われ、時間との競争で、必死にまとめあげた。

森熊先生はこの仕事をとっても喜んでくれて、「またあんな仕事したいなァ」と会う度に話していた。

先生の画集の「あとがき」には、『多喜二さん サッポロの「ネヴォ」茶店でお逢いすることは出来なかったが プロ文化の花は咲きほこりました 多喜二さん有難う(中略)』。そして家族宛に『色々と心配をかけたなァ 許してくれ 九十五才のジジより 二〇〇四、八、一日(亡くなる1か月前)』と結ばれていた。

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