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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(8)

木馬館と安来節、そして浪曲の輝き(下)

安来節のさよなら公演

♪花の東京は この浅草の

晴れの舞台は 木馬館

歌い続けて 五十年

雨の降る日も 風の日も

いつも変わらぬ ごひいきの

情けをぐっと 胸に秘め

この浅草を 去って行く

それでは皆様 さようなら

昭和52年6月1日から30日まで行われた安来節お別れ会では、舞台にずらり並んで座ったお姐さん達(稲葉雪子、岡田照子、天野豆子、美山たかね、横山フジ、岡田勇子)が、この歌詞で安来節をリレー風に一節ずつ歌いあげて幕を閉じた。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

昭和39年秋だったか、文部省主催の芸術祭に参加して、奨励賞を受賞しながら、式に出席するはずが、会場まで行って照れくさくなって、帰ってきてしまったというエピソードを持っているシャイなお姐さん達だった。

この木馬館は大正12年の関東大震災にも焼失を免れ、階下は前回に記したように木馬館とし、階上は昆虫館として人気を呼んだという。

そして、昭和5年頃から、安来節のブームに乗って、階上を安来節の本拠にした―と記録にある。浅草六区では、大正末年頃まで、もはや伝説化されている浅草オペラと安来節が人気を共有した時代が続き、これこそ大衆の街浅草特有のエネルギーのゆえんと言えるかと思う。

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スペース 浅草六区の屋台店

▲浅草六区の屋台店(酒井不二雄・画)

この建物は、幸いなことに、何と東京大空襲でも焼失しなかったので、戦後いち早く1階の木馬館は営業を開始できた―という訳である。程なく階上では立花梅奴(たちばなうめやっこ)一座による安来節も復活した。

昭和26年、観音堂修理工事資金集めのため、大池(俗称・ひょうたん池)が埋め立てられ、姿を消した。その頃、浅草六区はストリップが全盛時代を迎えていた。

昭和31年、浅草寺の土地計画により木馬館は一時休館となり、改築に入り、同年12月に落成。新春より階上の安来節は再び華々しく幕を開けた(1階は木馬映劇という映画館になった)。

さよなら公演が始まると、客席は満席。外も長蛇の列。司会の今三次(こんさんじ)さん(民謡)が、「こんなに入ってくれるんなら閉館しなくても済んだのに…」と言って会場を笑わせた。

かつては、お正月など人でふくれあがって舞台と客席のやりとりもエスカレートし、舞台にはファンから差し入れの一升びんがずらりと並び、その熱気たるや物凄いものがあったが、そんな時代が去って、私を含め、観客がたった4人きりという日さえあった。当然、舞台の出演者のほうが数が多い。トイレに行こうと立ち上がると、「お客さん、帰らんといて!」と舞台から声がかかる。「トイレ! トイレ!」と答えると、「じゃ、席に戻るまで待っとるから、早く行って来!」てな調子で、SKDの時にも似たようなことを書いたが、あの日は本当に切なかった。

 

安来節楽屋風景

▲安来節楽屋風景(昭和初期)

 

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Wけんじさんとの再会

ところで、前回、Wけんじ結成時のことを書いたが、再会の顛末(てんまつ)はこんなもんだった。

このシリーズ・に歌手・塩まさるさん(「九段の母」)との長い交流のことを書いたが、昨年10月に他界された武藤礼子さん(テレビアニメ「ふしぎなメルモ」の主人公や「ムーミン」のノンノン。外国映画でもグレース・ケリーやエリザベス・テイラーの吹き替えで活躍)にお手伝いいただいて、「塩まさると武藤礼子の手作りチャリティーコンサート」という会を護国寺の天風会館で開いた。

当時武藤さんはFM東京で、「日本のうた」というなつメロを中心とした人気番組の司会役を務めていた。

会場は、その頃東邦音大の教授をしていた友人でもあるピアニストの飯野淳也さんにお世話になった。

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林伊佐緒さん(ダンスパーティの夜)、川田正子さん(童謡)、池真理子さん(愛のスイング)、桜井敏雄さん(ヴァイオリン演歌)…など、ゲストも多彩だった。

余談になるが、この中で、飯野さん、武藤さん、川田さん、そして私の4人が同い年だった。手もとのメモに、平成2年8月5日と残っている。その日は友人達が受け付けから裏方までボランティアとして手伝ってくれたが、朝早い時間からロビーに野球帽を目深にかぶって、じっと下を向きっぱなしの一人の男性がいて、私も忙しく動きながら、その存在が気になっていた。

ボランティアの女性陣も気味悪がって誰も近づかないでいたようだが、その中のお一人が「あそこに座っている人が、今日の会の責任者を呼んできてくれないか、と言っている」と私を呼びに来た。早速出向くと、男はようやく顔を上げて、「オレ東けんじだけど―」と名乗り、私の顔を見上げて、あれっという表情をした。

国際劇場の舞台裏でお互いに見知った顔だった。木馬館でのデビュー時代から何年もたっていて、Wけんじは既に東京漫才界を代表する大人気のコンビとなっていた。

何でも東さんは、ひどい大病をして退院したばかりだそうで、「塩さんのコンサートがあるというんで来たんだけど、5分だけ俺に時間くれねえかなあ」ということだった。「今日は相棒(宮城けんじ)も家にいるはずだし、できたら退院後初の舞台をテスト的に少しだけやってみたいんだけど…」。

突然の申し入れに、私はちょっとためらったが歌の間にお笑いコーナーがあってもいいかなと思い、5分だけという約束でOKをしてしまった。

家が会場に近かったらしく、程なく宮城けんじさんも駆けつけて来た。1部と2部の間に出番を設けたが、この日のお二人の漫才は凄い迫力だった。5分間の約束が10分たっても15分を過ぎても終わらない。舞台の火花は超満員の客席を大爆笑の渦に巻き込み、Wけんじは乗りに乗りまくった。司会の武藤さんは、時計と私の顔のにらめっこ。サインを送っても二人には全然通じないので、何回も終わりの催促に二人に近づいたが、「ホーラまた武藤さんが来たぞ!」「きれいだなァ」「でもオッパイは小さい!」。とうとう武藤さんが本気で怒りだすころ、やっとエンディングを迎えた。

「お疲れさん」。病後のテストは大成功で、お二人は上気した顔のまま帰っていった。私は少額ながら、当日の出演者と同額の謝礼を渡したが、芸人根性を見事に爆発させたその日の舞台は、(時間ではハラハラしながらも)凄いものを見た―という印象が強く、磨きのかかった芸の熱演に満員の客席は皆一様に酔って拍手が鳴りやまなかった。

一度改めてご挨拶をと思いながら、気がつくとお二人とも鬼籍に入ってしまった。そういえば主役の塩まさるさんも、林伊佐緒さんも池真理子さんも、武藤礼子さん、川田正子さんまでもが不帰の人になってしまっている。

一方、飯野さんは人望もあつく、〈飯野ファミリー〉とも呼ばれるコーラスグループを沢山抱え持ち、松戸、柏、山梨、秩父、佐渡…とまさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍ぶりで、先年は池袋の芸術ホールの大ホールを満席にして、300人の大合唱「佐渡の四季」を上演し、大喝采を浴びた。地元松戸の合唱グループ「コール・モア」と「コール貝の花」。「コール貝の花」は結成20周年を迎え、先日森のホール21でこれも盛大なコンサートが開かれ、私もご招待を受けた。数年前には「野口雨情コンサート」も同じく森のホール21で開き、そっくり佐渡でも野口雨情展(童画)とジョイントコンサートを開いた。私も佐渡まで同行し、楽しい数日を過ごさせていただいた。

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浅草─安来節の残映

さて、最後にまた浅草へ戻って…。何年ぐらい前だったか、秋の夕べ、観音様の境内で一人淋しく鳩に餌を与えている木馬館で人気者だった天野豆子さんとばったり出会ったことがあった。

一緒のベンチに座り、「今、豆子さん一番の楽しみは何ですか?」と聞くと、即座に「浦太郎さんネ」という返事が戻って来た。

東家浦太郎(初代)、関東節の雄として、「野狐三次」や「夕立勘五郎」「紋三郎の秀」などで一世を風靡した人だが、そういえば、いつの頃だったか、木馬館の楽屋の豆子さんの化粧鏡の横に、かなり大きな浦太郎師の写真が飾られていたことを思い出した。

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コール貝の花のみなさん

▲コール貝の花のみなさん(前列中央が飯野淳也さん。左端が筆者)

ちなみに美声で人気者だった若手のホープ太田英夫さんが、二代目東家浦太郎を襲名した。たしか(転居していなければ)松戸市在住のはずで、襲名が内定した内祝いの宴に、私は偶然、キングレコードで太田さんを育てたんだと自負する、旧知の満留氏と同席している――。

豆子さんが去った後、私は一人ベンチに残り、消え去った安来節の灯、浪曲の今後など、ぼんやり考えていた。夕闇とともに秋の冷気が忍び寄り、あっという間に浅草寺本堂が、巨きなシルエットに変わった。

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