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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(2)

「九段の母」と塩まさる

♪上野駅から 九段まで 勝手知らない 焦れったさ 杖を頼りに 一日がかり 伜来たぞや 逢いに来た…

美空ひばりが、出征する父増吉の壮行会に集まった近所の人達の前で、この歌をうたい、大勢の人の涙を誘ったということは、今や伝説となって語り継がれている。

昭和14年5月、キングレコードからテイチクへ移籍した塩まさるさんの移籍第一号の歌がこの「九段の母」で、時局を反映して大ヒットとなり、今に残る昭和歌謡史の代表曲のひとつとなった。

ちなみに数々の戦中歌謡のヒット曲を飛ばしていた塩さんをテイチクに奪われたキングでは、苦肉の策として、少し前に作曲家志望の青年に同行して来社した「流し」の若者の美声に目をつけた。持参した作曲家の「旅役者の唄」という曲に作詞家・松村又一が新しく詩を書き変えて、「国境の春」という歌が生まれた。売り込み作曲家は若き日の上原げんと。同行した縁で、デビューのチャンスを掴んだ佐々木辰男青年が、のちの岡晴夫である。「国境の春」も大ヒットとなり、塩さんの「九段の母」と同月に発売された「上海の花売娘」で岡晴夫もスターへの階段を駆け登って行くことになるが、今回は主人公・塩まさるさんに話を戻すことにする。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

高級官僚から流行歌手へ

塩まさるは、明治41年2月12日福島県いわき市で生まれた。1歳の時、本家の叔父の養子となり、中学時代は長野県で過ごしたという。歌の世界から見れば「波止場気質」「裏町人生」「流転」「妻恋道中」「上海だより」…等々数多くのヒット曲を世に送り、ニューギニア戦線で散った上原敏(びん)。また、「ダイナ」「上海ブルース」、戦後の「夜霧のブルース」などでお馴染みのディックミネ。塩さんはこのお二人と同年だと聞いている。

塩さんは、昭和3年、早稲田大学卒。JRの前身・国鉄のそのまた前身の鉄道省に入省した。

歌手の東海林太郎さんは早大で10年先輩。東海林さんは海を渡り「満鉄」へ。塩さんは国内で鉄道省に入り、総武線のお茶の水−千葉間の電化の責任者として活躍したという。塩さんはよく「私の本籍はまだ千葉県に置いたままです」と自慢していた。

細かいいきさつは省くとして、当時職場でブラスバンドを結成し、仲間がキングレコードへ熱心な推薦文で塩さんの美声を売り込んだのが縁で、今で言うオーディションを受ける羽目になった。

たまたま、出来上がったばかりの「軍国子守唄」があり、テスト盤として吹き込んだ塩さんの歌声が大ヒット曲となり、またたく間に全国つづうらうらへ広がって行った。昭和12年9月のことである。この年、日中戦争が始まり、ちまたには「露営の歌」「愛国行進曲」が流れ、ずるずると長い戦争への道を歩きはじめた頃であった。双葉山が横綱になり、9月には後楽園球場が開場となったり、明るい話題もあったが、軍靴の足音は確実に近くなりつつあった。塩さんより少し先輩の小野巡(めぐる)さんは、警察官出身で、巡査として警邏(けいら)中の美声を買われてスカウトされたそうで、小野巡として人気歌手になっていった。「守備兵ぶし」「音信(たより)はないか」「涯(はて)なき泥濘(ぬかるみ)」「西湖の月」…等々、戦中歌手として多くのヒット曲を出している。

一方の塩さんも「月下の吟詠」「母子(おやこ)船頭唄」「戦地から故郷から」…等々。「巡査歌手」と「鉄道歌手」の歌声は一世を風靡(ふうび)した。
話が前後するが、テスト盤の「軍国子守唄」が当時のミリオンセラーとなり、塩さんは、鉄道省の服務規定に触れ、悩んだ末に、歌手への道を選んだ。「軍国子守唄」は主演が笠智衆で映画にもなった。戦後の昭和23年、古巣の「キング」へ戻った塩さんは、「流転子守唄」というヒットを生んだが、ジャズに代表されるアメリカ音楽の上陸に「自分の時代は去った…」として歌謡界からひっそり引退している。

 

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九段の母のレコード

▲「九段の母」のレコード

若き日の塩まさるさん

▲若き日の塩まさるさん

 

ポスター

▲塩さんが新橋みどりさんと唄った「戦地から故郷から」のポスター

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塩さんとの出会い

東京下町で昭和10年に生まれた私にとって、大げさに言えば、塩さんの歌声で代表される戦時歌謡の中で育ったと言っても過言ではない。

NHKに勤める知人の紹介で塩さんと初めてお逢いしたのは、塩さんが古希を直前にした頃だった。塩さんは足立区に住み、「マスト」という珍しい商店街のコンサルタント業をしていた。渥美二郎さん(北千住出身)が「夢追い酒」のキャンペーンで「マスト」の近くで歌った時、司会者が「九段の母」の大先輩、塩まさるさんだと知って、飛び上がって驚いたという話が残っている。

初対面で意気投合した塩さんと私は「なつメロ」が老人の脳の活性化に大いに役立つということを知り、二人張り切ってボランティア活動を続けることになった。特に9月の敬老の日は毎年、ほとんど柏地区に来て、敬老の集いに昭和のなつメロを歌い、会場いっぱいの人達の大喝采をあびた。

塩さんは無類の能弁家であり、毒舌家でもあった。あの毒蝮三太夫さんとラジオ出演した時も、一方的に塩さんの勝ちで、毒蝮さんが、「塩さんは普段何を食ってるんだい」という問いに間髪をいれず「人を食ってるのよ」といった調子で、毒蝮さんもグーの音も出なかった。

私のことを「ガハク」と呼んでは、私の帽子をとり「ホラね、ハクという字は薄いと書く」と言って「私と比べっか?」と自分の頭を差し出して悦に入っていた。

柏の豊四季台近隣センターで、「塩まさる昭和の歌コンサート」というのを開いたことがあった。塩さんは、昭和の世相を時代を追って面白く語りながら、当時の流行歌を挿入していった。マイクを握りっぱなしで、「東京ラプソディ」から始まって、休憩をはさんで全47曲。聴衆は等しく昭和の思い出に酔った。後で塩さんは、「ガハクはこんなひどいことを私にさせるとんでもないワルイ人です」と周囲の人を笑わせていた。

 

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晩年の塩まさるさん

▲晩年の塩まさるさん

 

80歳を過ぎても衰えぬ声

それにしても、70代から80代になっても、塩さんの声は衰えを知らなかった。

塩さんの「傘寿の会」を私は柏駅西口に出来たばかりの第一生命の小さなホールで催した。

東京からなつメロ愛好会の人達も駆けつけ、狭い会場ながら盛況裏に終わった。

私は何とかして、東京のホールでちゃんとした会を開きたいと思い、塩さんの近所に住んで何かと塩さんの面倒を見てくれているYさんと相談した。そして、護国寺にある「天風会館」で声優の武藤礼子さんにも協力していただき、「塩まさると武藤礼子の手づくりコンサート」という会を開いた。当日は台風一過の快晴で客席も満席。席の取り合いで、お客さん同士の怒号まで出る始末だった。

ゲストとしてキングの林伊佐緒さん(「ダンスパーティの夜」他)、江崎はる美さん(日本調なつメロ)、コロムビアの池真理子さん(「愛のスイング」他)、並木路子さん(「リンゴの唄」他)、今年急逝した童謡の川田正子さん、バイオリン演歌の桜井敏雄さんらが出演してくれた。

楽屋で右往左往する私に、キングの重役のMさんが、「いやあ恐れ入った。私達本職(くろうと)には、とてもこんな大胆な会は開けない!」と皮肉られた。

この会が発端になり、私とYさんとで、1年おきに会を続けようということになり、有楽町朝日ホール、そして北区王子の北とぴあ桜ホールと、会もぐんぐんとその規模を大きくしていった。

塩さんは、テレビからも声がかかるようになり、テレビ東京の「昭和歌謡大全集」やテレビ朝日の「徹子の部屋」にも招かれるようになった。

私にとっては、楽しい道楽だったが、お陰で、色々な歌手の皆さんとの交流も生まれた。

嬉しいハプニングもあった。そんな思い出は、また稿を改めて書かせていただこうと思っている。塩さんは舞台からよく「昭和は大変な時代でした。そして会場の皆様一人ひとりが、その大切な『時代の証言者』なんですよ」と訴え続けていた。

塩さんが90歳を迎えた時の「塩まさる・90歳の青春」では、バンドも豊岡豊のフルバンド、ゲストもなつメロ歌手総出演の半日がかりの大コンサートとなり、有終の美を飾った。

剛直一筋に昭和という時代を生き抜いた塩さんも、最晩年、奥さんに先立たれてからは、がっくりと本物の老人になってしまった。

若き日、エリート官僚の道を捨てて、歌手の道を選んだ塩まさる。総理の靖国参拝で世論がかまびすしい今、「靖国」の是非はさておき、「九段の母」という持ち歌を全身全霊を打ち込んで60数年も歌い続けた塩まさる。平成15年10月16日、塩さんは、95歳で鬼籍に入った。

慈光院謡唄朗勝居士―今は、長野県天竜川近く、尹良山堯翁院で静かに眠っている。

合掌

 

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