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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(1)

林家木久蔵さんのこと

04年5月から05年6月まで連載した「私の昭和史 小松崎茂と私」はご好評をいただきました。今号より第2部として根本圭助さんの交友録を中心に昭和という時代を振り返ります。

 

林家木久蔵

▲中先生(中央)との対談がかない嬉しそうな木久蔵さん(右)。後ろは光子さん

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林家木久蔵さん――(「師匠」と呼ぶべきだが、文章が堅くなるので、親しくさん付けで呼ばせていただくことにする)。売れっこ落語家として、最近は八面六臂の活躍で忙しい身体なのに、私達の展覧会や集まりによく顔を出して下さる。つい先日終わったばかりの、私の所属する日本出版美術家連盟展の初日パーティーにも来てくれたし、その2日後にも、私の行きつけの新宿のカラオケスナック「昔の歌の店」にも、大学の落研(オチケン)の若者を連れて現れ、ひと騒ぎして帰っていった。

木久蔵さんは多くの人がご存じのように、若いころは漫画家志望だった。

昭和31年ごろから、当時の人気漫画家・清水崑氏に師事し、数年書生生活を送っている。

私より2歳若いが、同じ時代の空気を吸った同志ということもあり、画家志望だった共通点もあって、初対面から何やら特別な親しみを感じた(先方はどう思っているかわからないけれど)。

昭和12年日本橋生まれ。チャキチャキの東京っ子で、昭和を彩ったかつてのチャンバラ映画や、それに主演した「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎(アラカン)や、「旗本退屈男」の市川右太衛門、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、高田浩吉……様々な憧れの大スターとも交流を持っている。木久蔵さんも生粋の昭和っ子なのである。チャンバラ映画に対する蘊蓄(うんちく)も限りなく深く、『キクゾーのチャンバラ大全』をはじめ、著作本も30冊を超えている。先日は、片岡千恵蔵の『多羅尾伴内・七つの顔の男』という本も出している。これらは持ちネタにもなっていて、時折高座にも登場するが、木久蔵さんでいつも感心するのは、平常私達と会っても全く高座と言動が変わらず、その細かい気配りのサービス精神に「疲れるんじゃないかな」とこちらが心配してしまう。私にもよく気を遣ってくれるので、私は内心これはちょっとした「男の花道」だな――と感謝している(「男の花道」ワッカルカナァ)。

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そんな訳で木久蔵さんの漫画には筋金と年季が入っている。

木久蔵さんの著書『ぼくの人生落語だよ』の中に、清水崑氏に弟子入りした件(くだり)があるが、当時清水邸は鎌倉の雪の下、二の鳥居のそば、鶴ヶ岡八幡宮の参道わきにお住まいがあったようで、この折り、清水崑氏が奉書に認めてくれたという、いわば弟子入り5ヶ条の文章が、とても面白い。ちょっと引用させていただく。

一、豊田洋は、清水崑の書生として働くこと。

一、働く時間は午前八時半から午後八時までを原則とする。

一、食事は三食支給、住まいは下宿とし、そこから通うこと、なお家賃はこちら持ち。

一、休みは、月四回、一日休み一回に、三時からの休み三日、その都度言い渡す。

一、月給は、月ぎめ三千五百円。    以上

昭和三十一年七月         清水 崑

――とある。豊田洋(とよだひろし)というのが木久蔵さんの本名である。清水崑さんは南画風ののびのびした筆致で、政治漫画をはじめ、そのすばらしい筆使いは、私も魅了されていた一人で、大ファンだった。また、名文家としても知られ、滋味豊かな随筆も数多く残している。色気たっぷりな河童の絵「かっぱ天国」で人気を博したが、その流れを現在は小島功さんが受け継いで清酒「黄桜」のコマーシャルも続いている。

その清水崑さんは、昭和49年3月27日、61歳で他界している。木久蔵さんは、4年程で独立。そこでまた色々あって、清水崑さんの紹介で、落語家・桂三木助に入門して、改めて落語家の道へ進むことになるのだが、清水家における4年、天才漫画家清水崑氏の薫陶(くんとう)を受け、多くの鎌倉文士の生きざまに接してきたことは、木久蔵さんの血となり、肉となって体内に蓄積されていることと私は信じて疑わない。

その木久蔵さんから、中一弥先生に会わせてほしいと電話が入った。

 

剣客商売

▲中一弥先生の挿絵が表紙に載った池波正太郎の「剣客商売」(新潮文庫)

 

中一弥先生のこと

中一弥――挿絵界の最長老で、池波正太郎の「鬼平犯科帖」「剣客商売」等の挿絵を手がけている画家――と言ったら、納得される方も多いと思う。現在95歳。現役の画家として今なお彩管をふるっている。

中先生には随分私も可愛がっていただいて居り、父とも仰ぐ大事なお人である。

数年前三重県の津にお住まいの長男・祐一郎さんが、東京に暮らし続けたいという中さんを説得して、無理に津へ引き取ることになった。

中さんは、生まれは現在の大阪府門真市だが、若いころ上京して以来ずっと長い東京暮らしだったので、津へ移るのを本当に嫌がっていた。長いこと同居していた姪の光子さんとも離れることになり、光子さんは現在大阪の守口市に住んでいる。

東京が恋しい中さんは、姪の光子さん同道で、ほぼ月に一回上京して来るが、その度に私は定宿の後楽園のドームホテルにお伺いもし、時には親しい方々と一泊のグループ旅行を楽しんだりしているが、何せ95歳というご高齢である。近ごろは時として車いすを使うようになった。

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木久蔵さんの電話に私は快諾し、時間を調整し、中さんの上京に合わせてご対面となった。喜んだ木久蔵さんからまた電話が入り、「当日テープで録音とっていいですか?」と聞いてきたので、私も「どうぞ、どうぞ」と返事をした。中先生には、いつも心苦しく思いながら、ドームホテル内の京料理「たん熊」で毎度豪華な料理を御馳走になっている。木久蔵さんとの約束の前日、ちょっと急用ができて、その日も中先生の所へ出向いた。

その日の中先生は、月に一度の逢瀬(おうせ)なので、常にも増して昔話に熱が入り、時を忘れて話し合った。中先生は耳が遠く、補聴器をつけて居るが、古い話に登場する人名もフルネームで覚えていて、その記憶力にはいつも感嘆する。

その日は特に長く話し、部屋に移ってまた長い時を過ごした。さてその翌日である。緊張した木久蔵さんは新しいテープレコーダーを持ち、意気揚々と現れた。その日は「たん熊」さんで気を遣ってくれて、奥の静かな部屋を用意してくれた。

木久蔵さんが、そっとテープレコーダーを設置し、中先生と姪の光子さん、木久蔵さんと私、楽しく話がはずんだ。少し中先生、昨日より元気ないかな――ホスト役の私はちょっと気になったが、一応お開きとなった。直後、木久蔵さんが「あーっ録音されていないっ!」と悲鳴に近い声をあげた。新しいレコーダーで、操作を誤ったらしい。ところが、中先生の方も昨日と違って補聴器の具合が悪く、木久蔵さんの話はほとんど聞こえていなかったということで、一同大笑い。これも気配り豊かな中先生が、木久蔵さんに、それと知られないよう配慮して合わせてくれたようで、大笑いの対談(?)になってしまった。

中先生のことをもう少し……。数年前私は仕事関係のM社長の仲介で、三重県の津市へ小豆製品で有名な井村屋さんの会長のご招待をうけた。前述の通り、中先生は現在津市にお住まいなので、偶然に驚いてご挨拶に寄ることにした。

井村会長が私を招いてくれたのは、津市にある津観音に私財を投じて建立した五重塔をぜひ私に見せたいということで、折悪しく風邪気味だった中先生には、昼間その五重塔へだけお誘いした。本格的五重塔としては全国で3番目に小さい塔と教えられた。中先生を自宅に送りとどけ、その日は井村屋さんの工場を見学したり、夜は清少納言の枕草子にも出てくるという榊原温泉で大歓待を受けた。帰宅してすぐに中先生から電話が入った。

「この間は有り難う。ところで、五重塔へ行った時、井村会長の奥さんが用事でちょっと来たでしょう」。

そういえばそんなことがあった。中先生の話は続く。

「あの奥さん、私のタイプなんや。できたらスケッチさせてもらいたいんだけど……」。

90歳を超えた先生からのリクエストである。私は感動して、井村会長にお伝えした。井村さんは奥さんを亡くし、後妻さんを迎えたのだそうで、そういえば若い奥さんだった。井村会長も感激して奥さんを伴い中先生宅を訪れ、スケッチは無事に済んだそうだが、残念ながら私はまだその作品を見ていない。

「鬼平」にしても「剣客商売」にしても、卒寿を過ぎてなお瑞々しく色気ある女性を描いている中先生の若さの秘密を垣間見た思いだった。

ちなみに中先生の三男は、直木賞作家で、今大活躍している逢坂剛氏であり、井村会長の奥さんは、実は柏市の出身と後日伺い、その奇縁にも驚かされた。

平成13年9月26日に開館した台東区立中央図書館の一隅に「池波正太郎記念文庫」があり、中先生の原画もかなり飾られている。2年ほど前、中先生の記念講演があり、会場は一杯の人で埋まった。木久蔵さんにしても、私にしても、中先生に言わせると「若くていいなァ」ということになる。

しかし、誰彼の区別なく、歳月は怖いほど確実に過ぎてゆく。

若いころむしろ病弱だったという中先生にも兵役の経験がある。木久蔵さんや私達は空襲と、敗戦後の飢餓の時代で喘(あえ)いだ世代である。今年も8月15日が近づくが、昭和を生きた人々にとっては様々な形であのころの日々を引きずっている。因果なものとしか言いようがない。ああ誰か昭和を想わざる…。

 

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