松戸の城跡を訪ねて(4)

 本シリーズでは第786号で根木内城、行人台城、小金城、続く第787号で相模台城と三ヶ月馬橋城を、前号第791号では松戸城を紹介した(ご興味のある方は弊社ホームページ、市立図書館本館、県立西部図書館のバックナンバーをご覧ください)

根本城の一部(金山神社)の写真▲根本城の一部(金山神社)。市役所屋上から撮影

根本城

築城年代不明。高城播磨守により築城。

一部が金山神社として残り、大半は鉄道施設や宅地と化している。

吉祥寺や岩山稲荷も城内にあったとする説もある。岩山稲荷のものと思われる1719年の棟札銘によると、「高城下野守」が同社を建立し、「高城播磨守」が1592年に再興したとある。「高城下野守」は胤吉か胤辰、「高城播磨守」は胤辰、胤正の兄弟、胤知だろうか。

(根本字金山)

 

伝説の残る中根の妙見社の写真▲伝説の残る中根の妙見社

中根城

文永年間(1264~75)、千葉頼胤により築城。

馬橋の砂州集落を挟んで、1㎞の北側に馬橋城を望む位置にある。

千葉頼胤の孫の貞胤にまつわる伝説が残っている。1348年正月、貞胤は不本意ながら北朝方について楠木正行と河内で戦い、その暮れに小金城(馬橋城)に戻ったところ、城が住めないほど荒廃していた。この城主の痛ましい姿に同情した農夫が傍らの枝を3本折って城主の憩う場所を作ってあげた。貞胤は農夫に助けられて守護神妙見菩薩を背負って千葉の館まで帰り、後にその場所に建てられたのが中根の妙見社だという。妙見社は中根城内にあった。

後に農夫はこのことから「三枝松」の姓をもらい、千葉妙見社の例祭の際には開扉は馬橋の三枝松氏が務めるようになり、以降、明治時代まで続いたという。

 (中根字城之越)

 

本郷城は本福寺のある台地の写真▲本郷城は本福寺のある台地にあったという

本郷城

築城年、築城主不明。

明治神社や本福寺のある台地上にあったと推測される。

明治神社が千葉氏の守り神である妙見社として創建されたこと、土塁や空堀の遺構、物見台的高所があることから中世の城郭跡と見られる。

(上本郷字北台、花台)

 

栗ヶ沢城

1460年、高城胤忠により築城。

根木内城西側から2㎞南へ入った東側の標高25mの半島状台地にある。現在は小金原団地の一部。

高城氏の関東における最初の拠点。主力が根木内城に移った後も城館は存在したと思われる。

(栗ヶ沢字若芝)

 

市内城郭分布図

殿平賀城

1537年、高城胤吉により築城。

殿平賀小学校建設の際に中世城郭の遺構である腰郭、土塁、空堀などの跡が発見された。小金城のすぐ近くなので、小金城の付属施設であったと考えられる。

(殿平賀字原ノ山、五良兵衛屋敷)

 

幸谷城

1537年、高城胤吉により築城。

大谷口の小金城の南800mの江戸川低湿地に突き出た舌状台地上にある。1728年に徳川将軍家の旗本となっていた高城氏の子孫、高城清胤のもとを幸谷の五郎右衛門が訪れ、自分の先祖は高城氏家老の斎藤外記であり、この地に家老の城があったと述べたという。

 (幸谷字宮ノ下)

※参考文献=「松戸の歴史案内」(松下邦夫)、「日本城郭体系第6巻」(松下邦夫/新人物往来社)