「松戸の夜」誕生秘話

ご当地ソング「人が幸せになる歌詞に」

 あなたひとりに

     命をかけて

 さがしもとめて

     逢いにきた

「松戸の夜」の歌詞の額を挟んで、左から石上さん、吉岡さん、谷さんの写真▲「松戸の夜」の歌詞の額を挟んで、左から石上さん、吉岡さん、谷さん

 愛のしるしを

     あなたの胸に

 骨をうずめて

     しまいたい

 あゝ…

   松戸の夜に

     灯がともる

松戸のご当地ソング「松戸の夜」の一番の歌詞である。この曲を作詞した谷耕一(本名・荒谷)さん(75)の投稿(4月23日発行、第812号)をきっかけに、谷さんと石上瑠美子さん(松戸市民劇団代表・松戸探検隊ひみつ堂館長)、吉岡光夫さん(昭和の杜博物館理事長・吉岡建設工業会長)の3人が当時の松戸の思い出などを話し合った。

昭和52年1月9日のサンケイ新聞によると、47年3月のある日、中島季次郎さん(芸名・仲清史。当時41歳)が、ギターを抱えて市長室を訪れ、松本清市長の前で「すぐやる課音頭」と「松戸の夜」を披露した。この歌を気に入った松本市長は、ポケットマネー100万円を出して、レコード化することに。プレス費用は、松本市長が3千枚分、中島さんが2千枚分を負担した。A面が「すぐやる課」(渡辺むつ作詞、仲清史作曲、甲斐靖文編曲)、B面が「松戸の夜」(谷耕一作詞、水上勉作曲、甲斐靖文編曲)。唄は仲清史。レコードジャケットには藤間勘市猿の振付、藤間猿寿々の表現で「音頭」の振付が写真入りで紹介されている。

発売から4年が経ってB面の「松戸の夜」に人気が出たが、レコードは既に売り切れ。市の広報課には「歌詞がわからないか」という問い合わせの電話がかかってきた。

 

仲清史 すぐやる課/松戸の夜(コロムビアレコード)の写真▲仲清史 すぐやる課/松戸の夜(コロムビアレコード)

レコーディングには松本市長も同席した。その印象を「背が高い人だったが、あまりしゃべらなかった」と谷さんは話す。石上さんは、「市長はチバラギ弁(千葉と茨木の言葉が混じった言葉)だったから、(気にして)あまりしゃべらなかったのでは」と推察する。

吉岡さんは、流し時代の中島さんに夜の松戸の街で出会っている。「松戸の夜」は有線でも流れ、よく耳にしていた。中島さんは歌手をやめた後、戸定の丘の下で割烹料理店を経営していたが、その店にも飲みに行ったことがあるという。宴会場には大きな額に入れた「松戸の夜」の歌詞を書いた額が飾られていた。頼むと、いい声で一曲歌ってくれたという。その後、同店が閉店した時、解体工事を請け負ったのが吉岡さんだった。処分するという「松戸の夜」の歌詞が書かれた額を譲り受けた。

谷さんは、青森県野辺地町の出身。中学を卒業後、昭和34年に理容師の免許を取り、東京に出てきた。大手町や日本橋の理容店で長く働いたという。昭和54年に鎌ヶ谷市に、平成5年に松戸市に引っ越したが、今でも昔の常連客が来るため、日曜だけ自宅で営業している。

作詞を学んだのは東京に出てから。祖母が津軽の民謡歌手で、再従姉妹(はとこ)も民謡歌手だった。谷さんにも歌手を夢見た時期があった。作曲家の水上勉さん(小説家の水上勉氏とは別人)、歌手の仲清史こと中島さんは同じ芸能事務所に所属しており、お店にも髪を切りに来てくれたという。修行時代を含めて様々な店で働いた谷さんは、劇作家の寺山修司の髪も切った。

石上さんは「松戸の夜」は、当時の松戸の夜の街の雰囲気をよく表しているという。

谷さんは、水上さんから作詞の依頼を受け、「人が幸せになる(ストーリーの)歌詞にしたい」と考えたという。松戸に来て幸せをつかんだ女の歌だ。三番は「小雨降る降る 高砂通り」で始まるが、谷さんは中島さんに松戸の地名を聞いて、「高砂通り」を入れた。実際に松戸を訪れたことはなく、言葉のイメージと語呂だけで作詞した。松戸の駅に初めて降りたのは、作詞した後。水上さんと二人、高砂通りを歩いた。思っていたよりも、ずっと狭い通りだったという。

石上さんは「すぐやる課」「松戸の夜」のほかに、「市民歌『わが松戸』」「松戸小唄」「松戸こども音頭」「松戸音頭」「小唄 君をまつどの」「福祉のまちづくり音頭」「小金原音頭」「松戸市民音頭」「むつみ音頭」が入ったCDを持参してくれた。松戸のご当地ソングもずいぶんあるものだ。それぞれの歌には、どんなストーリーがあるのだろう。