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バックナンバータイトル710・711号

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東葛の寺社めぐり(1)

流山の神社・仏閣を訪ねる旅

 

 

 

 

 

 

 

一昨年の新年号の企画「松戸の古寺巡礼 市内60か寺を訪ねる旅」、昨年の企画「松戸の神社めぐり 市内80のお宮を訪ねる旅」はたいへん好評をいただきました。そこで、今号より数年をかけて「東葛の寺社めぐり」と題して、流山、野田、柏、我孫子、市川、鎌ヶ谷各市の神社・仏閣を訪ね歩いてみたいと思います。第1回目は、お隣の流山市。神社約40社(宮)、仏閣約30か寺、合わせて約70の寺社を訪ね歩きました。掲載は季刊とし、3〜4か月に1回のペースで予定しています。

【戸田 照朗】

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スペース 鬱蒼とした森のなかにある諏訪神社拝殿と彫刻が見事な狛犬

▲鬱蒼とした森のなかにある諏訪神社拝殿と彫刻が見事な狛犬

源義家と馬の像

▲源義家と馬の像

境内に湧くご神水

▲境内に湧くご神水

摂社・末社も見事

▲摂社・末社も見事

樹齢600余年の巨松の切株

▲樹齢600余年の巨松の切株

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東武野田線 豊四季駅周辺

諏訪神社と成顕寺

千葉県の北西部に位置し、江戸川沿いに、松戸の北にある流山市。東西約8キロ、南北約10キロ、総面積約35平方キロメートルで、ほぼ長方形の形をしている。

東武野田線・豊四季駅(柏市)から徒歩3分の諏訪神社は「おすわさま」として親しまれてきた。

前を走る県道が一昨年の秋に紹介した「諏訪道」で、布施弁天〜流山市街を結び、江戸時代、物流と諏訪神社への信仰の道としてにぎわった。

祭神は武御名方命(たけみなかたのみこと)。

諏訪神社は、大同2年(807)に、天武天皇の皇子・高市皇子の後裔が政変のために関東に下ったおりに、風早(松戸)、名都借と移り住み、最後にこの地、駒木に落ち着き、信州からお諏訪様を勧請したという。

鳥居の右脇には、「おすわさま」と彫られた大きな石が参拝者を迎える。鳥居の奥は、長い参道となっている。一万余坪あまりの広大な境内は、他に類を見ない。森という言葉があてはまるほど、緑が深く、昼でも暗い。

平安時代末期に源義家(八幡太郎)が奥州遠征した行き帰りに諏訪神社に詣でて、戦勝祈願とお礼に乗馬と馬具を献じたという。その時に鞍をかけた松を「鞍掛の松」と呼ぶようになり、明治初年に枯れたという。今は碑だけが残る。この話にまつわる彫刻がある。 彫刻で見事なのは、拝殿の前に鎮座する狛犬だ。北村西望氏(長崎の平和祈念像の制作者)の作品で、近年のものだが、妖気漂う迫力の造形である。また、参道にある門の中に鎮座する矢大神・左大神の彫刻も見事。雨宮敬子氏の作である。

拝殿に向かって右側の森の中には天神、稲荷、國魂、恵比寿、大鳥、招魂、雷、姫宮の各神社があり、周遊コースのように各社をめぐることができる。神社には多くの摂社・末社が祀られていることが多いが、諏訪神社のそれは、また立派なものである。

神社を見る時は、拝殿の後ろにある本殿の周りをぐるりとめぐることをお勧めする。正面からは見えない本殿の造形を見ることができるし、多くの摂社・末社に出会うことができる。諏訪神社の場合は塀にはばまれて、本殿をよく見ることができないのが少し残念である。

境内には歌碑や、樹齢600余年を生きた「巨松」の根株などもある。ご神水も湧いていて、飲むことができる。諏訪神社は見所が多い。

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「十二月の大祓い」のための大きな「茅の輪」

▲「十二月の大祓い」のための大きな「茅の輪」

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取材に訪れた年末には拝殿の前に大きな「茅の輪」がつくられていた。12月31日の午後4時から行われる「十二月の大祓(はら)い」のためのもので、茅の輪を決められたくぐりかた(八の字)でくぐることで、知らず知らずの間にみについた罪穢(つみけがれ)を祓い清めるのだという。

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豊四季駅前の通りをしばらく真っ直ぐ行くと、通りからは見えないが、右手の緑の中に明治時代初めの神仏分離の前までは諏訪神社の奥の院だった成顕寺がある。

境内は広大で、本尊は釈迦牟尼仏。龍王堂には行基菩薩の作とされる鞍掛大龍王が安置されており、本土寺(小金)出身で日蓮上人高弟の日朗上人の開眼だという。

もとは真言宗の寺だったが、日朗上人との法論に敗れ、日蓮宗に改宗したという。このとき敗れた僧2人が自刃し、その塚が寺の下の田園の中にあるという(改宗については別の説もある)。

150年以上前に建てられたという伽藍の彫刻が見事。唐造りの巨大な鰐口(わにぐち)、紙本著色釈迦涅槃図が市指定文化財となっている。

 

 

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見事な彫刻が施された本殿と広大な成顕寺境内(下)

▲見事な彫刻が施された本殿と広大な成顕寺境内(下)

広大な成顕寺境内

 


流山電鉄 平和台・流山駅周辺

散策に便利な流山市街

 

 

 

 

 

 

流山市街地は寺社が多く、散策するには最適だ。交通では総武流山電鉄流山線の平和台駅、流山駅が最寄りとなる。

市街地の南の端にある赤城神社には流山の地名にまつわる伝説が伝わっている。赤城神社は全体が小山のようになっている。

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赤城神社の大しめ縄。向こうに見えるのは光明院境内

▲赤城神社の大しめ縄。向こうに見えるのは光明院境内

お正月にまつわるエトセトラ

大昔に大洪水があり、上州赤城山の土塊がここに流れ着いたという。それを裏付けるように、上州赤城山に茂る熊笹と赤城神社に茂る熊笹が同じ種類のものだという。

また、別に、大洪水の時に上州赤城神社のお札がこの小山に流れ着き、お祀りしたという説もある。

赤城神社の入口には、巨大なしめ縄がある。大しめ縄は毎年10月19・20日(現在は第3土・日曜日)に行われる祭礼の前の10月10日(「宮薙=みやなぎ」の日。現在は上旬の日曜日)に、氏子が力を合わせて作る。長さ約10メートル、太さ約1・5メートル、重量約700キロある大しめ縄は、現在は祭礼の後も取り除かれず、一年間人々を見守っている。

流山は京都の鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに敗れた新選組が再起を期して駐屯した場所であり、近藤勇と土方歳三の今生の別れとなった場所である。

赤城神社の隣にある光明院は、新選組隊士の宿舎にもなったという。

境内にある「多羅葉(たらよう)」という木の説明書きが面白い。この木は通称「はがきの木」と言い、インドで葉面に経文を書いた貝多羅(ばいたら)樹に比して名付けられたという。葉の裏に爪やマッチ棒などで字や絵を描くことができ、長く残る。「葉書」の語源の説もある、とあり、最後に「ご自由に手の届く葉に字をお書き下さい」とある。近くの葉を裏返してみると、なるほど字が書いてある。

近くには流山寺、一茶双樹記念館と杜のアトリエ黎明がある。記念館は、この地の醸造家で俳人だった秋元双樹と小林一茶との交流を記念して建てられたもの。

この通りを進むと右手に長流寺、左手に寺田稲荷という小さなお宮があり、少し進むと右に庚申塔がある。さらに進むとキッコーマンの工場のフェンスが左に広がるが、このフェンスの途中に、工場に食い込むようにして庚申塔がある。また少し歩き、左に折れると「近藤勇陣屋跡」がある。

同地には酒類販売問屋の秋元さん宅がある。秋元家は秋元双樹の秋元本家の分家だそうだ。秋元家の前にある秋元稲荷で近藤や土方が戦勝を祈願したという。

近くには閻魔堂(えんまどう)がある。

閻魔堂には閻魔大王の座像が安置されているが、境内には金子市之丞の墓がある。

金子市之丞は、歌舞伎世話狂言「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」に出てくる「金市(かねいち)」のモデルになった人物だと言われている。「義賊」ねずみ小僧次郎吉のモデルとも言われる。犯罪人の家族がお参りすると刑が軽くなるとか、脳の病気のものがお参りすると治るとも言われている。傍らには、河竹黙阿弥の芝居の中の遊女、三千歳(みちとせ)の墓がある。

 

 

 

 

 

金子市之丞・三千歳の墓

▲金子市之丞・三千歳の墓

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光明院の菩薩形坐像(5月末まで流山市立博物館に展示中)

▲光明院の菩薩形坐像(5月末まで流山市立博物館に展示中)

光明院の「葉書」

▲光明院の「葉書」

フェンスに食い込む様に庚申塔

▲フェンスに食い込む様に庚申塔

近藤・土方が祈願した秋元稲荷

▲近藤・土方が祈願した秋元稲荷

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浅間神社の富士塚

▲浅間神社の富士塚

礎石だけが残る観音堂跡

▲礎石だけが残る観音堂跡

「朝寝坊観音」とも呼ばれる琵琶首観音(西栄寺)

▲「朝寝坊観音」とも呼ばれる琵琶首観音(西栄寺)

西栄寺の阿彌陀如来坐像

▲西栄寺の阿彌陀如来坐像

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浅間神社には、本堂の裏に「富士塚」があり、これがちょっと面白い。

富士山は古来より信仰の対象となってきたが、この塚は富士山をかたどって作られ、富士山の溶岩も使われている。全体が富士山のミニチュアといった感じで、中腹に様々な石像や一合目、二合目…と続く「登山道」もある。この塚を拝んだり、「頂上」から本物の富士山を拝んだのだろう。市指定文化財でもある。

浅間様は西深井小学校のそばにもあり、こちらも富士山を模した小山となっている。

流山駅を挟んで反対側にも、大宮神社(公園の中にあり、緑豊かで参道が長い)や、本行寺、光照寺、浄蓮寺などの寺社がある。

市街地を離れ、流山街道を野田方面へ歩くこと約15分。消防署を過ぎ、東葛病院の向かいにある小山が花輪城跡だ。

小金城の高城氏の家臣花輪淡路守の城とも、平本定虎という武将がこの地を領有していたとも伝えられる。この城は小金城が豊臣方に攻められ落城した時に属城としてなくなったとされている。

その後、城跡に観音堂が建てられた。飛騨の匠が難破した船の木材を使い、カンナを使わず、釘を一切使わない特異な建物だったという。この堂はもともと県道付近に本堂があった真言宗西福寺の境内にあったという。茅葺きのこのお堂を見たかったのだが、いたみが激しいことから解体されてしまったらしい。

今は基壇(きだん)と礎石(そせき)が残るだけだ。本尊は等身大の観音菩薩立像でこの小山を琵琶山と言ったことから「琵琶首観音」ともいう。現在は、桐ヶ谷の西栄寺観音堂に安置されている。我が国の仏師の祖として仰がれる名匠、平安時代の仏師定朝の作とも伝えられる美しい仏像だ。

「朝寝坊観音」の異名があるこの観音様には次のような言い伝えがある。

むかし、この観音堂の近くに2人の乞食が住み着いて、いつもお供え物を盗み食いしていた。慈悲深い観音様はとがめることもなく、それを見ていた。ある日、近くで祝言(しゅうげん)があったので、観音様の前にはお酒やごちそうが供えられた。2人の乞食がこれを見逃すはずもなく、夜から観音様の前で宴会を始めてしまった。もう飲めや歌えの大騒ぎ。しばらくその様子を見ていた観音様も我慢しきれなくなり、仲間に入って酒盛りを始めた。

飲み慣れない酒を飲んだ観音様は、2人とともに寝込んでしまった。ふと気がつくと朝日が差し込んでいる。実は、きょうは天上界で下総の観音様が集まる大事な会議がある日だった。観音様はあわてて飛び起き天上界に行ったが、もう既に2時間も遅刻してしまっていた。観音様はもうシドロモドロ。

しかし村人たちはこの慈悲深い、心のあたたかい観音様のことを益々敬うようになったという。

消防署の所まで戻り、左に行くと2つ目の信号のところに茂侶神社がある。伝説では1世紀の創建と大変古く、平安時代の「延喜式神名帳」に名前が見られる「式内社」だという(松戸市小金原にある茂侶神社との説もあり)。

裸の男たちが八升餅をちぎり合う「ヂンガラ餅行事」という奇祭が毎年1月8日(最近は最寄りの日曜日。今年はきょうの午後1時〜)に行われる。餅の割れ方でその年の作柄を占うという。

 

 

「式内社」茂侶神社

▲「式内社」茂侶神社

 

 

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流山電鉄 鰭ヶ崎駅周辺

伝説の多い鰭ヶ崎・思井

 

 

 

 

 

 

総武流山電鉄流山線の鰭ヶ崎駅の近くにある東福寺は真言宗の寺で、嵯峨天皇の弘仁5年(814年)に弘法大師が東国行脚中にこの地に立ち寄った時に、竜王からこの山を守るようにとの神託を受けたので、寺を開いたと伝えられている。

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東福寺の阿弥陀如来立像付千体阿弥陀如来立像

▲東福寺の阿弥陀如来立像付千体阿弥陀如来立像

お正月にまつわるエトセトラ

急な石段を登ると、巨大な仁王門がそびえている。門の中に安置されている2体の金剛力士像は運慶作と伝えられる市指定文化財。

また、日光東照宮造営の際、材料の一部が寄贈され、建立されたという山門には左甚五郎作と伝えられる鴨の彫刻がある。この彫刻には「目つぶしの鴨」の伝説がある。

昔、毎晩田や畑が荒らされるというので、村人が寝ずの番をしていると、ある日1羽の鴨が荒らしていった。鴨の後をつけると東福寺の山門のところで見えなくなった。よく見ると、山門の彫刻の鴨の足に泥がついている。村人が五寸釘を鴨の眼に打ち付けると、田畑は荒らされなくなったという。

門には表と裏に1羽ずつ鴨の彫刻が掘ってある。表の1羽がこの「目つぶしの鴨」のようだ。

また、平将門を討った藤原秀郷の伝説も伝わる。

東福寺から谷を渡った向かいの高台には奥の院の千仏堂がある。

近くには雷(いかづち)神社があり、ここには、おびしゃ行事が伝わる。

 

東福寺の奥の院・千仏堂

▲東福寺の奥の院・千仏堂

 

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東福寺境内

▲東福寺境内

東福寺の金剛力士立像

▲東福寺の金剛力士立像

目つぶしの鴨

▲目つぶしの鴨

本覚寺参道の並木道

▲本覚寺参道の並木道

伝説の椎の木(右)が残る熊野神社

▲伝説の椎の木(右)が残る熊野神社

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東福寺から少し歩くが、県道沿いの高台、西平井という地に本覚寺という南北朝時代に創建された日蓮宗のお寺がある。参道に背の高い柿の木が沢山あり、趣がある。

本覚寺を出て県道に戻ると、斜め右に、民家の間の車は通れないような細い道がある。ここを入っていくと少し歩いた林のなかの道に思井の「耳だれ地蔵」がある。江戸時代初期建立の延命地蔵で、耳だれ(中・外耳炎)治しのお地蔵様だ。

この地蔵堂の隣にある伊原家の邸内には忠犬小金丸の犬塚がある。大きなお宅だが、お住まいではないらしく、残念ながら拝見することはできない。

下野守(小金城の高城氏)がこの地に愛犬小金丸と狩りに来たが、不猟で、疲れて椎の木の根元で休んでいた。ウトウトと居眠りをして、ふと気がつくと、小金丸が自分にうなり声をあげて襲いかかる勢いになっている。下野守は立腹し、小金丸の首を一刀のもとにはねてしまった。すると、首が椎の木の枝にからまっていた大蛇にかみついて、落ちてきた。小金丸が大蛇から自分を守ろうとしていたことに気づいた下野守は自らの行いを悔い、僧を呼んで手厚く葬ったという。

伝説と思われていた小金丸の話だが、明治時代に梵字(ぼんじ)と「小金丸阿弥禅門」「明応七年 四月十九日」と刻まれた板碑が付近から発見されており、史実の可能性がある、という。

 

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本覚寺の鬼子母神立像

▲本覚寺の鬼子母神立像

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思井の「耳だれ地蔵」

▲思井の「耳だれ地蔵」

伊原家の前は山を削った切り通しとなっており、つくばエクスプレスが走っている。線路を下に見ながら橋を渡り先に進むと熊野神社に出る。

境内は鬱蒼(うっそう)とした森に囲まれ、昼なお暗い。

熊野神社には幹の根元から5本に分かれた大きな椎の木がある。この木にも伝説がある。

4、500年前、紀州の本社から分祭のために守札が送られてきた時、守札が入った箱に椎の実が1粒入っていた。粗末にはできないと、境内に蒔くと、成長して8本の幹に分かれた。当時、この神社を信仰していたのは8部落で、「元八木」と名付けていた。その後いくつかの部落が自らの鎮守を持つようになると、幹が1本ずつ枯れ、5部落で5本の幹になったという。

熊野神社の前は急坂道になっており、両側に竹林がある。青面金剛など古い石像なども多く、その暗さ、雰囲気から、まさに村の鎮守の趣がある。

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流山街道沿い 北小屋

市内最古の香取大神宮

 

 

 

 

 

 

流山街道沿いの北小屋というところにある香取大神宮は流山市内では最古の神社だという。

俗説では日本武尊が東征した時には既に存在していたというが、社伝によると称徳天皇の御代(764〜770年)の創建らしい。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。

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樹齢千年という香取大神宮の御神木

▲樹齢千年という香取大神宮の御神木

鬱蒼とした森の中にある境内だが、鳥居の前に入口をふさぐようにして巨大なご神木の切株が残されている。樹齢千年を超えるという立派なものである。このご神木と鳥居の位置には、少し不思議な感じを受けるが、鳥居をくぐると随神門があり、両脇に矢大神・左大神の石像が鎮座している。その奥には、市内で最も古いという社殿がある。

江戸時代後期に「香取神社」となったが、それ以前は「桐斉殿」、後に「桐明神」と呼ばれていたという。

古くから武運の神として信仰され、1180年に石橋山の合戦に敗れて市川の国府台まで来た源頼朝が家臣に祈願させたり、1189年の奥州征伐の時も家臣に命じて祈願している。また、小金城の高城氏もあつく信仰していたという。

流山市内にはほかに、「香取神社」が前ヶ崎、青田、名都借、平方、木、向小金新田、青田新田にもある。

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小金牧の哀馬をしのぶ

東初石のオランダ観音

流山や松戸がある一帯は、平安時代から江戸時代に至るまで、小金牧という広大な牧場があった。

江戸時代の延宝4年(1676)に、品種改良のためにオランダ馬が連れてこられた。ところが、日本の風土や日本馬ともなじめず、だんだん性質も凶暴になり、作物を食い荒らしたり、人を傷つけたりするようになった。

そこで牧士は、やむなくオランダ馬を狙撃。傷を負った馬は四苦八苦の末、住み慣れた十太夫新田の沢にたどり着き、水を飲みながら息絶えたという。

仕事とはいえ、馬を狙撃した牧士や地元の名主は、異国に連れてこられて哀れな最期をとげたオランダ馬のことを哀れみ、馬頭観音として祀ったという。里人からはいつからか「オランダ観音」と呼ばれるようになり、今は東初石の住宅街の中にひっそりとお宮がある。

また、「オランダさま」と呼ばれる馬頭観音が流山街道沿いの美原に民家の敷地に食い込むようにしてあった。

 

古の人と神仏との関わりを感じる

印象深い神社・仏閣

最後に、そのほかに印象に残った寺社を紹介したい。どの寺社も田園や緑の中にひっそりとあり、古(いにしえ)の人と神仏との関わりを感じさせるものである。

上新宿にある八坂神社。

周囲は広大な畑が広がり、その牧歌的な風景の一角、ちょうど道が2つに分かれる三叉路の際にある。畑とは一線を画し、ここから神社の一帯が森となっている。まさに昔の農村の風景を思わせるもので、ほっとさせられる貴重な風景だと思う。周囲の石像や古い祠が落ち葉に隠れるようにしてあり、趣があった。

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住宅街のなかにある「オランダ観音」

▲住宅街のなかにある「オランダ観音」

上新宿の八坂神社

▲上新宿の八坂神社

八坂神社境内の小さな祠

▲八坂神社境内の小さな祠

斜面林の緑のなかにある下花輪の神明神社

▲斜面林の緑のなかにある下花輪の神明神社

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下花輪の神明神社。

江戸川沿いには広大な田園が広がっているが、田園と台地の間には斜面林が続いている。その斜面林の中にある小さな神社が神明神社だ。坂の途中にある小さな階段を登ると、鳥居と小さな社殿がある。古い石仏や祠が苔むしている。緑の中の木漏れ日が社殿を映し、美しい。

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平方村新田の稲荷神社

▲平方村新田の稲荷神社

田園に浮かぶ南の弁天様

▲田園に浮かぶ南の弁天様

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稲荷神社も各地に点在している。

平方村新田にある稲荷神社は、江戸川の堤防沿いに走る真っ直ぐな一本道に面している。周りには田園以外何もなく、気持ちがいい。

南という地域にある弁天さまも、田園の中に浮かぶ小島といった感じでたたずんでいた。弁天さまには水がつきもので、水田の中にあるか、周囲を池が取り囲んでいることが多い。

新松戸の隣、木という地域にある豊受神社も、田園に浮かぶ小島のように見えて趣がある。

同じ木にある観音寺や前述の赤城神社には「むくろじ(無患子)」という木があり、昔は子どもたちが、その実で男の子はビー玉遊び、女の子は羽根突きをして遊んだという。

近くの香取神社は江戸川の堤防沿いにあり、並木から見える姿に趣があった。

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木の豊受神社

▲木の豊受神社

子供が遊んだという、むくろじの実

▲子供が遊んだという、むくろじの実

木の香取神社

▲木の香取神社

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円頓寺前に残る石仏群

▲円頓寺前に残る石仏群

中野久木の斜面林には愛宕ふれあいの森という公園があるが、その一角に愛宕神社がある。また、近くには円頓寺がある。円頓寺は江戸時代(天保年間)創建の寺だったが、茅葺きのお堂が老朽化のため取り壊され、今は地域の集会所として再建されている。参道入口付近に古い石仏や地蔵や江戸川八十八か所めぐりのお堂があり、古いお寺の雰囲気を残している。

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円頓寺前の牧歌的風景

▲円頓寺前の牧歌的風景

名都借の広寿寺は山門のある落ち着いたたたずまい。清瀧院は畑の中に浮かぶ境内が印象的だ。駒木台の法栄寺には、市指定文化財の日蓮上人坐像が安置されている。

 

 

つくばエクスプレス沿線

開発で変わりゆく風景

 

 

中という場所にある愛染堂(長福寺跡)には市指定文化財の木造愛染明王坐像が安置されている。堂のガラスの一角が切り取られていて、中の像を直接見ることができる。堂の前はつくばエクスプレスの高架橋になっていて、近くには流山セントラルパーク駅がある。開発の進む流山の一面を見る思いだ。

線路沿いには意外に寺社が点在している。前述の思井の熊野神社、後平井の本妙寺、天神社、市野谷の天神社、円東寺、十太夫の長栄寺など。

円東寺の前には古い六地蔵が並んで立っていた。振り返ると、つくばエクスプレスの高架橋。時の流れを感じずにはいられない風景だった。

市内には、江戸川八十八か所めぐりのお堂が点在し、なかなか趣のあるものも多い。民間信仰として、運河周辺には運河大師八十八か所をめぐるお堂もある。

 

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スペース 名都借の広寿寺山門

▲名都借の広寿寺山門

広寿寺の観音菩薩坐像

▲広寿寺の観音菩薩坐像

清瀧院の金剛力士立像

▲清瀧院の金剛力士立像

愛染堂の木造愛染明王坐像

▲愛染堂の木造愛染明王坐像

法栄寺の日蓮上人坐像

▲法栄寺の日蓮上人坐像。永禄4年(1561)造立で、もとは小金の本土寺のものだった

名都借の清瀧院

▲名都借の清瀧院

中の愛染堂(長福寺跡)

▲中の愛染堂(長福寺跡)

目の前をつくばエクスプレスが走る円東寺

▲目の前をつくばエクスプレスが走る円東寺

円東寺の石造十二神将

▲円東寺の石造十二神将

 

※紙面で紹介した仏像は、全て流山市指定文化財。木造愛染明王坐像以外は全て流山市立博物館提供。

※参考文献=「流山の旧史旧跡」、「流山のむかし」(流山市教育委員会)、「おの・ちゅうこう 昔ばなし 流山・野田の巻」(おの・ちゅうこう・崙書房出版)

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授与式の後の野球教室でリラックスした表情を見せる涌井秀章投手

▲授与式の後の野球教室でリラックスした表情を見せる涌井秀章投手

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涌井秀章投手に市民栄誉賞

 

 

 

埼玉西武ライオンズの涌井秀章投手(23)が、このほど松戸市民栄誉賞を受賞し、先月23日に運動公園野球場で授与式が行われた。

涌井投手は、本市に生まれ、寒風台小、松戸六中を卒業。ジュニアソフトの「寒風台」(現在は千駄堀フェニックスに統合)に所属し、後に硬式野球クラブチーム「松戸リトルシニア」に所属した。高校は横浜高校に進み甲子園に出場。卒業後、ドラフト1位で埼玉西武ライオンズに入団。

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1年目から1軍入りし、07年度はパ・リーグ最多勝。08年度はライオンズの日本一に貢献。09年度は、2度目の最多勝、沢村賞、ゴールデン・グラブ賞など多くのタイトルを獲得した。また、昨春の第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では日本の連覇に貢献。活躍する姿は多くのファンの心に残った。

涌井投手はジュニアソフトボール連盟大会に「涌井杯」を創設し、地域に貢献していること、松戸市の名前を広めたことなどが評価され、受賞となった。

涌井投手は授与式であいさつし、「まだ実感はありません。今の自分があるのは、多くの大人たちの協力のお陰。是非、ここ(運動公園野球場)を子どもたちに優先的に使用させてください。松戸市のためにも、これからもがんばります」などと話した。

授与式では緊張した面持ちだった涌井投手だが、式典後に行われた子どもたち対象の野球教室では、リラックスした表情を見せていた。

1999年に創設された松戸市民栄誉賞は、杉浦正雄さん(矢切の渡しの船頭、昨年逝去)、和田豊さん(元阪神タイガース選手、コーチ)、山崎直子さん(宇宙飛行士)、村上信夫さん(元帝国ホテル料理長、05年逝去)が受賞しており、涌井投手は5人目。

【戸田 照朗】

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専松、馬橋 全国を目指す

高校演劇 関東大会へ

 

 

 

昨年11月に行われた高校演劇千葉県大会で専修大学松戸高校が最優秀賞(1位)、県立松戸馬橋高校が優秀賞(2位)を受賞し、今月16日と17日に、茨城県ひたちなか市文化会館で行われる関東大会へ出場する。同大会で上位3位以内に入れば、夏に行われる全国大会へ出場することができる。

松戸市内の高校がそろって関東に進出するのは2年連続。昨年は1位が馬橋で2位が県立松戸。馬橋は、関東でも最優秀賞に輝き、全国大会では2位に。夏には国立劇場で上演し、その模様はNHKでも放送された。

強豪校が顔をそろえる松戸は、県大会前の地区大会を突破するのも大変だという。

県で1位の専大松戸は、もともと演劇部はあったものの、大会への挑戦は今回で3度目だ。昨年は、部長(当時)の麻生智義君の創作脚本で挑戦し評価されたが、県大会に進めなかった。

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専修大学松戸高校「交番へ行こう」の一場面(千葉県大会)

▲専修大学松戸高校「交番へ行こう」の一場面(千葉県大会)

千葉県大会で優勝した専修大学松戸高校演劇部

▲千葉県大会で優勝した専修大学松戸高校演劇部

 

「神隠し『八十八ものがたり』」の一場面(上・クリスマス公演)

 

土田教諭の還暦を祝う馬橋高校演劇部

▲「神隠し『八十八ものがたり』」の一場面(上・クリスマス公演)と土田教諭の還暦を祝う馬橋高校演劇部

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今年の演目は大垣ヤスシ・作「交番へ行こう」。街の交番を舞台に、万引きをして連れてこられた少女と、婦警との心の交流を描く(オリジナルは婦警ではなく男性)。

今年は音響を担当する麻生君は、「自分たちができなかったことを後輩が達成し、自分たちの2年間もむだではなかったと思う。昨年、一昨年に負けないくらい、今年のメンバーは努力しているので、誇りに思う」。

婦警役の田辺美永さん(3年)は、「関東大会に進めてうれしい。もう一度今いるメンバーで舞台を作れること、みんなに見てもらえることがうれしい」。

馬橋の今年の演目は岡安伸治・作、土田峰人・構成「神隠し『八十八ものがたり』」。百姓一揆を起こした村人が、役人に言い訳するために、「八十八」という架空の人物を作り上げる。劇中劇の要素があり、一人の役者が様々な人物を演じるため、最初は分かりにくい部分もあるが、勢いで最後まで見せる。県大会では主要キャストがインフルエンザで欠場するなど、アクシデントもあったが、それでも2位で突破した。地区大会、県大会、同校でのクリスマス公演と、演技、脚本ともに進化し続けている。あす11日、14時から同校体育館で関東大会直前公開リハーサル(入場無料)が行われるが、さらに進化していることが予想される。

部長で村人などを演じる板垣太哉君(2年)は、「地区、県と2位だったので、関東は1位で突破したい」。

同じく村人などを演じた小松崎司君(3年)は、「県大会の直前にインフルにかかり、欠場。突破してくれたのはありがたいが、悔しかった。関東では、お客を楽しませ、自分たちも楽しんで、がんばりたい」。

専松は16日16時50分から、馬橋は17日13時50分から出演予定。

【戸田 照朗】

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