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バックナンバータイトル686号

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松戸の神社めぐり

市内80のお宮を訪ねる旅

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スペース 金山神社の拝殿

▲金山神社の拝殿

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昨年の新年号では市内にある古寺、約60寺院を巡礼したが、今年は神社(お宮)を歩いてみた。さて、市内にはどれだけのお宮があるのだろうか。『松戸の歴史案内』(松下邦夫)の巻末にある一覧表には61の神社が出ている。この神社を目標に市内を歩いたところ、この表にも地図にも出ていない小さなお宮を偶然見つけたり、4面に掲載した弁天社を加えると、80を超えると思われる。私の目に触れなかったお宮もあるはずで、いくつぐらいあるのかは想像がつかない。宮司不在の神社が多いが、地域の人々によって大切に守られている。

【戸田 照朗】

歩道橋で常磐線を越えて金山神社の杜に入る

▲歩道橋で常磐線を越えて金山神社の杜に入る

頂上の富士嶽淺間大神

▲頂上の富士嶽淺間大神

麓の石の階段は鉄の歩道橋の下に吹いこまれるように消えていた

▲麓の石の階段は鉄の歩道橋の下に吹いこまれるように消えていた

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山岳信仰の神社

まず、歩いてみて面白かった神社2社を紹介したい。

松戸駅にほど近い金山神社。市役所の隣にあり、市庁舎の上階から下を見ると緑に覆われた小山がある。これが金山神社だ。市庁舎の裏の道から境内に入ることもできるが、私は旧水戸街道(県道)から、常磐線を越える歩道橋を通って境内に入った。歩道橋の上から、緑の中に緑色の銅板の社殿の屋根が見えている。祭神は金山比古命。

この小山全体が富士山を模した富士塚であり、ぐるぐると登山道を登って、「登山」が出来るようになっている。小道には何合目と刻まれた石も置かれている。社殿のある辺りは2合目か3合目あたりだろうか。中腹には小御嶽大神が祀(まつ)られている。いたるところに溶岩があり、富士塚の特徴を示している。頂上には富士嶽淺間大神が祀られている。山のマークの下に「清水」と記された碑がいくつもあり、講(参詣のための信者団体)に参加した人の名前がずらりと記されている。その昔は、ここから富士山がよく見えたことだろう。

常磐線が通る前は、旧水戸街道の方から参道がのびていたのではないだろうか。歩道橋の下をのぞいてみると、石の階段が鉄の歩道橋の下に飲み込まれるように消えていた。開発の中で生きてきた松戸の神社の側面を見たような気分である。

金山神社には伝説がある。『松戸の歴史案内』によると、神社の上のところに「かくれざとう」というところがあり、弘法大師(空海)が籠もって薬師如来を刻んだという。木の最も根本に近いところで刻んだものを安置したので、ここの地名を根本という。その薬師如来像は金山神社からほど近い吉祥寺の薬師堂に安置されているというが、秘仏のため見ることはできない。吉祥寺には弘法大師の立像もある。市内には中根という場所があるが、弘法大師が同じ木の中ほどの部分で作った薬師如来象を安置した寺院があったことから中根の地名が生まれたという。末の部分で作ったのが印西市の薬師様だと伝えられている。

もう1社は、小山にある浅間(せんげん)神社だ。国道6号線を挟んで松戸二中の向かい、近くにはJRの電車車庫がある。ちょうど旧水戸街道と国道6号線が合流する地点である。

ここも山岳信仰の神社だが、特徴的なのは山全体が極相林として千葉県の天然記念物となっている点である。

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植物は人間の手が加わらなければ、草原から森林へと変化してゆく。樹木の種類も落葉広葉樹から常緑広葉樹に変わっていく。完全な照葉樹林となった最終段階で長期安定した森林を極相林という。

浅間神社の社殿は山の頂上にある。頂上付近にはいくつかの祠もある。参道は麓(ふもと)から一直線に社殿に向かってのびており、森林浴を楽しみながら長い階段を登る。極相林を守るためだろうか、参道の両側には鉄の柵があり、脇道には入れないようになっているが、もしかすると昔は金山神社のように、山をぐるぐる巡り、途中には小さな祠などもあったのかもしれない。

神社の杜は貴重な緑

今でも宅地開発が進む松戸市では、神社の杜は貴重な緑となっている。
神社を探す場合、適当に当たりをつけて現地に行ってみる。住宅街の中にひときわ高くて大きな木々の集まりがあれば、たいてい神社か旧家の庭である。境内にある大木はご神木として大切にされてきた。開発の中でも残されることが多い。それでも、区画整理で移転を余儀なくされたり、境内や参道が縮小されたりと、昔のまま残されている神社はおそらく皆無であろう。

長い参道を持つ神社では和名ヶ谷の日枝神社が思い出される。県道から階段を登って境内に入るも社殿ははるか彼方で、かすかにしか見えない。実は、昔はこの県道を越えて、国分川のある谷の方まで参道がつながっていたという話を聞いたことがある。いまでもこの神社を遠くから見るとひとかたまりの森林のように見える。日枝神社には市の無形文化財に指定されている「三匹獅子舞」が伝わっており、秋に奉納される。また、社殿も趣がある。

三匹獅子舞は、大橋の胡録神社と上本郷の風早・明治神社でも奉納される。胡録神社と風早神社にも長い参道がある。胡録神社は市道からのびる参道の急な階段を登ると社殿に着く。風早神社には日枝神社ほどの木々が残っていないが、長い参道が往時をしのばせる。

紙敷にある春日神社の参道入口には青々とした竹林が茂っていて、すぐにここが神社の入口とは分からなかった。住宅街の中の道を抜けると急に現れる緑である。竹林の中は昼なお暗い。階段を登ると社殿がある。この神社に来たら是非見ていただきたいのが、神社の裏に広がる畑である。個人の土地なので写真掲載は控えるが、「開発される前の松戸にはどこでもこんな景色が広がっていたんだろうなぁ」と思わせる牧歌的な景色が広がる。周辺には古い農家の屋敷などもある。どこかにタイムスリップしたような気分にひたれる、松戸の中で一番好きな秘密の景色の一つである。

高塚新田にある八幡神社の参道も緑が豊かだった。入口の鳥居は市川松戸道路に面しており、交通量も多いが、境内は別空間である。

高塚八幡神社は源義経が木曽義仲を追討した宇治川の合戦で活躍した名馬「生月(いけずき)」が眠る塚の上に祀(まつ)られており、「高塚」の地名のもとになっている。

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浅間神社のご神木

▲浅間神社のご神木

「三合目」を示す石碑

▲「三合目」を示す石碑

山全体が極相林となっている浅間神社の杜

▲山全体が極相林となっている浅間神社の杜

 

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和名ヶ谷の日枝神社の三匹獅子舞

▲和名ヶ谷の日枝神社の三匹獅子舞

高塚八幡神社

▲高塚八幡神社

田園の中にポツンとたつ神社

▲田園の中にポツンとたつ神社

 

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平安時代からこの地域は小金牧という馬の放牧地で、この合戦で先陣争いをした佐々木高綱と梶原景季が乗った名馬・生月と摺墨(するすみ)も小金牧産だったと伝えられる。

生月はその後、再び小金原牧に放たれ、余生をおくっていたが、たまたまこの地で息を引き取り、人々は高塚を築き供養した。

江戸時代にはこの小高い高塚は江戸川を航行する船頭たちの目印になったというが、今では団地や宅地造成などにより、この土地が小高くなっているようには見えない。

社殿周辺を一巡り

神社を訪れたら、拝殿でお参りしてすぐに帰るのではなく、社殿の周辺などを一巡りしてみると面白い。社殿は手前に拝殿があり、その奥にご祭神がいらっしゃる本殿(神殿)があるのが一般的な形である。

私の好みから言うと、木造の古い社殿の方が趣があって好きだが、移転や建て替えなどでコンクリート造りや、非常に簡素な造りになっているものもある。しかし、拝殿の後ろを見てみると、意外にも昔の本殿が残されていて、神社の歴史を感じることができる場合もある。ただ、本殿を保護するためだろうか、本殿がすっぽり建物に覆われている場合もあり、本殿がほとんど見えずに残念に思うこともある。

また、「摂社」や「末社」といって、いくつもの小さなお宮や祠が境内にある場合がほとんどだ。摂社は祭神と関係の深い神様を祀るもので、末社は祭神とは由縁がなくとも氏子などが他の神社から招いた神様を祀るお宮である。

社殿で立派だなぁと感じたのは、やはり松戸神社だろうか。同社の境内にも多くの「摂社」や「末社」がある。また、新作の安房須神社は緑豊かな、昼なお暗い林の中に重みのある木造の社殿があった。本殿もよく見え、屋根に落ち葉がつもっている姿が趣があった。ほかに、千駄堀の香取神社、前出の日枝神社の社殿も趣があった。

神社といえば、狛犬という架空の霊獣も忘れてはいけない。一つとして同じものはなく、立ち止まって観察すると面白い。社殿は建て替えられても、狛犬はそのまま古いものを使っている場合が多いようだ。風雪に耐え、朽ちようとしている姿が神社の歴史を感じさせる。

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稲荷神社の場合は白い狐が迎えてくれる。狐などの神のお使いを「眷属(けんぞく)」という。ほかには亀やウサギ、猿、ヘビ、カラスなど様々な動物がいる。

今回、歩いてみて新松戸、七右衛門新田、旭町、主水新田、古ヶ崎など江戸川沿いの地域に稲荷神社が多いことに気が付いた。ここは豊かな水田が広がっていたところだが、坂川や江戸川の水害にも悩まされていた地域。水害を防ぎ、豊作を祈ってのことだろう。各村ごとに稲荷神社があったのではないだろうか。

まちづくりNPOセレガの小池 爾さんが教えてくれた旧九郎左衛門新田の神社も稲荷神社だろうか。トタン造りの小さな神社が水田の中にポツンとある。この地域の原風景を思わせる風景ではないだろうか。

また、道祖神や庚申塔(道標)、青面金剛やお地蔵様などが祀られていることもある。これは周辺の開発などで境内に集められたものだろう。

仏教系のものも散見するが、明治時代以前は「神仏習合」で、6世紀の仏教伝来以来、神社は仏教と共に歩いてきた歴史があるから、特に違和感は感じない。昔は寺院の境内に神社があったり、神社の祭神が仏教由来のものだったりしたこともあるという。

祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめとする『古事記』『日本書紀』に出てくる神々だったり、富士山のような山や自然そのものだったり、菅原道真のような実在の人物だったりして、実に様々だ。明確な教義や教典もない。

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神社と伝説

白鳥伝説のある松戸神社と銀杏のご神木

▲白鳥伝説のある松戸神社と銀杏のご神木

上本郷の風早神社

▲上本郷の風早神社

昭和17年に落雷を受けた雷電神社の杉のご神木

▲昭和17年に落雷を受けた雷電神社の杉のご神木

 

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黄門さまと白鳥

松戸には水戸徳川家のお鷹場があったため、黄門さまこと水戸光圀にまつわるいくつかの伝説が伝わっている。

松戸神社には「黄門さまと白鳥」伝説が伝わる。

黄門さまが鷹狩りに出かけた時のこと、御嶽大権現(現在の松戸神社)の前まで来ると、境内の大きな銀杏の樹に白鳥が一羽、羽を休めていた。光圀は白鳥をつかまえようと鷹をいかけるが、鷹は恐がってうずくまってしまう。いらだった光圀は、自分で弓矢を取って射落とそうとした。それを従者が「境内にいる小鳥を射れば必ず罰があります」と諌めたが、光圀は怒って弓を引き絞って矢を放とうとした。するとたちまち手がしびれ思うように動かない。そこで神殿の扉を射ようとすると、弓が真ん中から折れてしまった。光圀は愕然(がくぜん)として、折れた弓矢を奉納し、陳謝して帰ったという。

この時奉納された弓矢は、元文元年(1738)の火災で焼失してしまった。現在の拝殿の左端に弓矢が奉納されているが、この弓矢は伝説にちなんでか、後に奉納されたものだという。

同神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っている。尊(みこと)が、天皇の命令で東国に遠征した際、武蔵の国の平定に向かう途中、吉備武彦(きびたけひこ)の連(むらじ)、大伴武日(おおともたけひ)の連と待ち合わせをした場所が、現在、同神社がある場所だという。この縁から後世に村人が祠(ほこら)を建てて祀るようになり、寛永3年(1626)に社殿が創建された。

『古事記』『日本書紀』によると、尊が亡くなると、白鳥となって倭(やまと)の方角へ飛んでいったという。つまり白鳥は日本武尊の化身と言うべきもので、同社とは縁のある生き物である。

七面神社の大蛇

小金原の七面神社には「水戸黄門の大蛇(おろち)退治」の伝説が伝わる。

黄門さまは釣り好きで根木内の古池で釣りをしていた。すると、どこからか山カガシ(小さいヘビ)が出てきて黄門さまの指をピロピロとなめた。お供の侍が「ふとどきな」と山カガシの首を切り落とし、池に投げ込んでしまった。すると、池が泥とともに沸き立ち、「このままでは済まぬぞ」という声が聞こえた。山カガシは池の主の子だったのだ。その夜、池の主である大蛇が火をふきながら黄門さまの宿を襲った。大蛇は7つのおもて(顔)を持っていた。侍たちは苦戦したが、黄門さまの機転で火攻めにし、大きい瓶(かめ)に閉じ込めた。黄門さまは、子どもを殺され襲ってきた大蛇を不憫(ふびん)に思ったのか、池の真ん中にお宮を建て、瓶を祀ることにした。やがて、7つのおもてを持つことから七面様と呼ばれるようになった。

同社のご神体は光圀作と伝えられ、「七面大明神」の文字があり、台座部分には蛇が巻きついた彫刻がある。本殿に安置されているというが、もとは平賀本土寺に祀られていたもので、中には同寺の日栄上人の書が入っている。

10年前に幣紙で、この七面神社の伝説を取り上げたところ、読者からお電話があり、次のようなお話しがあった。

大正時代に二ツ木の蘇羽鷹(そばたか)神社の松の木の根元を掘ったところ、骨壺(こつつぼ)が出てきた。骨壺の中には大きな蛇の頭がい骨が入っていた。大きさは、手のひらと手のひらを合わせたほど。頭がい骨は、当時の小金町役場に欲しいという人がいて、あげたという。

七面神社の大蛇伝説と何か関係があるのだろうか。

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雷と黄門さま

竹ヶ花の雷電神社には、雷と黄門さまについての伝説がある。

黄門さまが江戸から水戸へ向かう途中、お宮(雷電神社)の前を通ったところ、大神様(雷)がなってどうしようもなかった。そこで、お宮のご神体の分身を水戸に持って帰って祀ったら、その後は雷が鳴らなくなった。

また、同社のある竹ヶ花にはこんな話も伝わる。

秋晴れのいい天気だったが、黄門さまを困らせようとしたいたずら好きの雷が一行をしつこくつけて、ゴロゴロやりながら雨を降らせた。

ところが、竹ヶ花で松の大木にぶつかり落下。黄門さまのお供のものにつかまってしまった。怒った黄門さまは、雷を鉄のお堂に閉じ込めた。10年後、許されてお堂から出た雷は、嬉しさのあまり7日7夜雲の上で太鼓をたたいて踊り続けたという。

同社は雷よけの御利益があるとして、近隣や市外の農家が「下がりもの」と呼ばれるナシ、ナス、キュウリなどを持って訪れたり、東京電力松戸営業所も祈願を行ったことがあるという。

茂侶神社は式内社

小金原の茂侶(もろ)神社に椎の大木があった。寛文4年(1664)4月、黄門さまが鷹狩りの途中に同社(当時は香取神社といった)を訪れた際、椎の木の下に神主を呼んで、この社が式内社かもしれないこと、椎の木をご神木として大切にすべきことを説いた、という。

式内社とは、平安時代に朝廷が出した延喜式神名帳(朝廷が尊敬する神社を記した帳面)に記録されている神社のこと。佐原市の香取神宮も式内社。なお、式内社は流山の茂侶神社(旧三輪明神)だとする説もある。

風早神社の大杉

上本郷の七不思議に風早神社の大杉の話がある。風早神社に周囲3メートルほどの大杉があり、その影が二ツ木村までのびていた。この大杉の陰になる田の実りが悪かったので、みこに伺いをたててもらうと、その田で穫れた米を神饌として風早神社に上げるように、とのことなので、お祭りの際に上げることにした。それからは作物がよく穫れるようになったが、ある年、神饌を怠ったら不作になったので、また毎年上げるようになった。

二ツ木側には少し違う話が伝わっており、二ツ木の田では大杉の陰になった田はよく穫れ、他はよく出来なかった。大杉のお陰ということで、その田で穫れた米を毎年風早神社に供えていた。ある年、お供えしなかったら風早神社が火事に遭ったので、また供えるようになったという。

大杉は幕末の慶応年間に枯れたが、明治30年頃までそのまま立っていたという。

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水戸光圀作と伝わる七面神社のご神体

▲水戸光圀作と伝わる七面神社のご神体

七面神社

▲七面神社

茂侶神社

▲茂侶神社


弁天社

弁財天(弁才天)は、もともと仏教の守護神「天」の一つで、七福神の紅一点として親しまれている。しかし、日本に伝わってからは、神道や民間信仰と習合し、神社として祀られることも多い。したがって、七福神の一つとして市内の寺院に弁天堂がある場合もあるし、神社の境内に祀られたり、弁天社として独立して存在している場合もある。弁財天は、水神と結びつきがあり、境内に池がある場合が多い。音が同じため「財」とも「才」とも書き、財宝神、芸能の神様としても信仰されている。なお、弁天様は女性の神様で、アベックでお参りすると焼き餅を焼いて、あまり良いことはないとされているので、お気をつけを。

 

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鳥居のトンネルを抜けると池田弁財天のお堂がある

▲鳥居のトンネルを抜けると池田弁財天のお堂がある

池田弁財天の祠。たくさんの蛇の置物が奉納されている

▲池田弁財天の祠。たくさんの蛇の置物が奉納されている

北総線大町駅近くにある弁天社

▲北総線大町駅近くにある弁天社

伝説が伝わる小僧弁天

▲伝説が伝わる小僧弁天

 

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信仰篤い池田弁財天

市庁舎の裏、市教委が入っている京葉ガスビルの隣りにひっそりとある池田弁財天。昔は、一面の田んぼで、水が出ると池のようになったので、池田という地名があるという。

入口から50もの鳥居がトンネルのように連なり、信仰の篤さをうかがわせる。俗説かもしれないが、鳥居のトンネルは女性の産道をあらわしていると聞いたことがある。弁天は女性神でもある。中にはいると、池とお堂がある。池には鯉と亀がいる。お堂には線香とロウソクが供えてあり、これをいただいて火をともす。「おん そら そば てい えい そわか」という言葉をとなえつつ祈願する。

信者の方だろうか、掃除をされている年配の方に出あうこともある。境内はいつも美しく保たれ、頭が下がる思いである。

境内には、蛇の置物がたくさん奉納されている。首のないものもある。願かけに首を取って持ち帰り、願いがかなうと新しい置物を奉納する習わしがあったのだという。

平潟遊郭があった時代には、巳(み)の日に遊女がそろって参拝し、下の病気にならないように、お客がよく来るように祈願したという。ちなみに、平潟神社(水神社)とその隣の来迎寺も遊女たちの信仰を集めていた。

伝説の小僧弁天

古ヶ崎の坂川のほとりに、小僧弁天という小さなお宮がある。

享保のころ、馬橋の萬満寺に義真坊という小僧がいた。小僧は賢く活発で和尚に可愛がられたが、大変ないたずら好きで、13歳の時に寺にいられなくなり、寺男2人が日ごろの恨みを晴らすべく、小僧を捕らえて米俵につめ、川に投げ込んでしまった。小僧は「この恨みは必ず子孫にたたってみせるぞ」と叫んで死んだ。死体は古ヶ崎村に流れ着き、享保16年(1731)6月20日に円勝寺住職がねんごろに葬り、かたわらに1本の松が植えられた。その後、古ヶ崎には白蛇があらわれるようになり、ある日、村人の夢枕に立って、白蛇は義真坊の化身であり、弁天に祀り供養するよう告げた。村人は小さな祠をたてて、「小僧弁天」と呼ぶようになった。その後、寺男2人は熱病にかかって死に、子孫にも災難が続いたという。また、小僧は学業のしすぎで身体を壊し、川に身を投げたとの説もある。

当時のお堂はもうないが、本堂近くに小さな階段のついた台座部分だけが残っている。萬満寺境内にも昭和9年(1934)に池が掘られ、弁天の祠が造られた。

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いぼ弁天ほか

そのほかにも、いくつかの弁天社が印象に残っている。

大谷口歴史公園の近く、総武流山電鉄線の踏切のそばにある平戸弁天は通称「いぼ弁天」という。昔、小金城の城主・高城氏の流れをくむ小金の富豪・日暮玄蕃の一人娘お逢は絶世の美女だったが目の下にあるいぼが悩みの種だった。医者に診せてもなかなか治らなかったが、この弁天様の湧き水でいぼを洗ったところ、治ったという。

北総線大町駅から線路沿いに新鎌ヶ谷方面に少し行くと、パチンコ店の駐車場の向かいに小さな弁天社がある。こんもりとした緑に囲まれ、小さな池の中に浮いている姿がかわいらしい。

浅間神社の山の周囲にある道を、少し松戸駅方面に歩くときれいに整備された弁財天宮がある。浅間神社の末社のようだが、小さな庭園を思わせる池や苔むした水路の水の流れ、椿の花の赤などが艶やかに映える。

和名ヶ谷の国分川の近くにある弁天社は、水田の中にこんもりとした小さな緑と共にあり、往時の農村の風景を思わせる。

21世紀の森と広場の近く、千駄堀の香取神社に行く坂の途中にあった弁天社は本当に小さなお宮だけがポツリとあった。

秋山の聖徳大学附属小学校の敷地の中に食い込むようにしてある弁天様(厳島神社)や、地域の集会所とともに、ブロック塀の中にひっそりとあった八柱弁財天も印象深い。

どれも、うっかりしていると見過ごしてしまいそうな小さなお宮ばかり。目を凝らせば、まだまだ市内にはいろんな弁天社があるかもしれない。

※参考文献=『松戸の歴史案内』(松下邦夫)、『松戸のむかし話』(岡崎柾男)、『神社の見方』(外山晴彦・『サライ』編集部編)

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平戸弁天(いぼ弁天)

▲平戸弁天(いぼ弁天)

浅間神社の前にある弁財天宮

▲浅間神社の前にある弁財天宮

和名ヶ谷の弁天社

▲和名ヶ谷の弁天社


「松戸マイスター」決まる

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今年度の松戸市特別技能功労者(松戸マイスター)がこのほど決まった。極めて卓越した技能を持ち、特に永年にわたり後継者の育成に貢献し、人格的にも優れた技能者を顕彰することを目的に昨年度より創設された「松戸マイスター」には、畳製作の池田武司さん(56)と美容の野村敏夫さん(60)がそれぞれ選ばれた。

【竹中 景太】

長年多くの生徒に洋裁を教えてきた牧野能子さん

▲数々の賞も受賞している野村敏夫さん

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美容室「サロン・ド・かずし」

野村 敏夫さん

 

下矢切で美容室「サロン・ド・かずし」を営む野村敏夫さんは、長年にわたり美容師として従事し、全国区の日本ヘアデザイン協会第3回オフィシャルコンテストで最優秀賞を受賞するなど、数々の受賞実績を有し、特に七五三やお正月に結い上げる新日本髪の技術は高く評価されている。

野村さんがこの道を選んだのは、兵庫県に住んでいた高校生の時。偶然、電車内で中学の時の同級生と会った。その女の子が将来、理容の道へ進むことを聞き、「男でも美容の道へ行ってもいいのではないか」と考えた。元々は、中学の時、吹奏楽で3年連続日本一になったことなどから、音楽系の大学に進学するつもりだったが、美容の道を志すことになった。

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当時、男性が美容師になることはめずらしく、親に反対され、美容の専門学校に願書を取りに行った際には、その学校の人から「あなたはやめなさい」と言われた。「まじめだったからでしょうね」と野村さんは振り返る。

それでも周囲からの反対を押し切って学校へ入り、優秀な成績を残した。「あなたはやめなさい」と言っていた人からは、「あなたほど入った時と出る時で違う人はいない」と言われた。

卒業後、大阪の百貨店内にある美容室にインターンで入り、美容師の資格を取得。すぐに2つのコンクールに挑戦し、いずれも最高位の大阪市長賞を受賞した。

「コンクール前は、1日3時間ほどの睡眠。店が終わった後、練習していたから。コンクールで賞を受賞したことはうれしかったが、それ以上に、コンクールの際に招かれていたフランスの偉い先生から『あなたが一番美容師らしい』と言われたことがうれしかった」。

賞を受賞したことで、25人ほどスタッフがいたこの美容室のリーダーから「2年ちょっとでトップになりなさい」と言われたが、自分の可能性を信じて、東京へ行くことを決めた。

知人の紹介で勤めたのは四谷の美容室。ここで3年ほど勤め、その間に受賞したのが日本ヘアデザイン協会第3回オフィシャルコンテストの最優秀賞。

野村さんはこの賞に甘んじることなく、つぎのチャレンジを決めた。世界を巡る客船での美容師としての仕事だ。そのために立川にある米軍基地内の美容室に1年間就職した。語学を学ぶためだ。しかし、語学は上達したが、基地にいたアメリカ人のセンスが、自分のイメージとかなりかけ離れていた。あまりにセンスが違う、ニューヨークのような都会に行かなければ、自分のやりたいことができないのではないか、と思った。

そんな時に、「店長をやってくれないか」という話がきて、六本木の美容室に勤めることになる。その後、結婚して子どもが出来たことを機に、自分の店を持とう、と現在の下矢切に店を構えた。

現在は、千葉県美容業生活衛生同業組合の千葉美容専門学校の副理事長も務めている。


池田畳店

池田 武司さん

 

 

 

新松戸で池田畳店を約30年にわたり営んでいる池田武司さんは、その道40年。もともと実家が畳屋だったことから「手に職をつけた方がいい」と思い、高校を中退して、この道を選んだ。

基礎を学んだのは、浦和にある全寮制の畳高等職業訓練校。この学校では、訓練校指導員の事業所(畳店)に住み込み、畳製作の応用実技を学びながら、その事業所から訓練校に登校するという日々を送った。この慣習は今でも続いており、池田さんも指導員として訓練生の受け入れをはじめ、現在も続けている。

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スペース 数々の賞も受賞した高橋工さん

▲40年畳を作り続けてきた池田武司さん

「訓練校で世話になった親方がたくさんいる。今まで自分にやってきてもらったことを返したい、その恩を返したいと受け入れを続けている。卒業した子から毎年贈り物があったり、店に子どもを連れて遊びに来ることもある。すごくうれしいし、やっていて良かったと思いますね」。

訓練校で3年間学んだ後は、柏にある畳店で8年間修業して、現在の店を新松戸に構えた。その間、国家検定である畳技能士の2級技能検定、1級技能検定を受け、ともに1回でパス。特に、1級検定の際は、最高位の金賞(埼玉県知事賞)を受賞した。「自信はあった。負けてたまるか、という気持ちだった」。

その後も埼玉県畳製作競技大会で優秀賞を受賞するなど、数々の受賞実績を残した。

「向き不向きもあるが、何年もやればできるようになる。(この仕事で)大切なのは、まじめであること。人様の家に入る、奥の奥まで入る仕事であるからこそ、変な好感をもたれてもいけない」。

現在は畳店を営むかたわら、地域の商店会長や新松戸防犯協会の会長を10年以上にわたり歴任するなど、地域活動に積極的に参加し、まちづくりにも貢献している。

自身は「人にしつこく言われて始めて、10年続けているだけ」と謙遜する。

今回、松戸マイスターに選ばれたことについては「思いがけないこと。まさかもらうとは思ってもいなかった。ありがたいですね」と話していた。

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祝賀会であいさつする琴欧洲

▲森井謙臣くん

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小2で珠算1級、算数県1位

松戸第一珠算学校

森井 謙臣くん

 

松戸第一珠算学校の「第91回校内珠算競技大会」(松戸よみうり新聞社後援)がこのほど開かれ、中学生や小学校高学年の児童・生徒が参加するなか、中部小2年の森井謙臣くんが最高位の最優秀賞を受賞した。

森井くんは幼稚園の年長から同珠算学校で珠算を学び、昨年10月には日商珠算検定で1級を取得。以前には公文にも通っており、算数で千葉県1位、全国でも11位に入り、小学1年の時、中学課程を修了したという。

小学2年といえば、学校の算数の授業では九九などを勉強している時期だが、森井くんは幼稚園の年中の終わりまでには九九をマスターしていたといい、年長の終わりには方程式に取り組んでいたというから、びっくりだ。

同学校で珠算を教える田代登美枝先生は「珠算を習ってわずか2年半での1級はすごい。教室での珠算に取り組む姿勢はもとより、自宅での練習、自分で目標の人を教室の中で決めて取り組んでいることが成績にあらわれているのでは。とくに、割り算(への理解)はすごい」と評価する。

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森井くん自身も、計算の中で最も好きなのは割り算と話す。「割り切れるとすごくうれしい」ことが理由だ。森井くんは「数字が好き。学校の授業でも一番算数が好き。競技大会は少しだけ自信があった」。

将来の夢は医者になること。テレビなどで、いわゆるスーパードクターを目にして「人を助ける仕事がしたい」と小さい頃から憧れているという。当面の目標は準初段の取得だが、田代先生は「成績しだいですが、準初段を飛び越すかも」と話していた。

【竹中 景太】

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