旧齋藤邸 登録有形文化財へ

文化庁答申「近代初頭の地域の景観伝える」

3月10日に文化庁の文化審議会が旧齋藤邸を登録有形文化財(建造物)にするよう答申した。登録されれば、松戸市初となる。「文化財登録制度」は、近年の国土開発や都市計画の進展、生活様式の変化などにより、社会的評価を受けるまもなく消滅の危機にさらされている近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために、平成8年に作られた。届出制と指導・助言などを基本とする緩やかな保護措置を講じるもので、従来の指定制度(重要なものを厳選し、許可制等の強い規制と手厚い保護を行うもの。国宝・重要文化財)を補完するものだという。建造物では今年3月1日までに東京タワー、東大安田講堂、犬吠埼灯台(銚子市)、興風会館(野田市)など全国で1万件以上が登録されている。

茅葺屋根と庭が美しい旧齋藤邸の写真▲茅葺屋根と庭が美しい旧齋藤邸

「茅葺の家」後世に 齋藤夫妻の想い 形に

答申を受けたのは紙敷588番地の旧齋藤家住宅主屋(しゅおく)。主屋の右側の増築部分は含まれない。明治34年(1901)の建築で、土間の上に直材の梁を井桁に組み天井を張るなど、近代的要素を持つ茅葺の住宅建築。近世以来の農家に、近代的な要素が加わった住宅建築で、近代初頭の地域の景観を今に伝えていることが評価された。

旧齋藤邸は、芝浦工業大学工学部機械工学第二学科教授だった故齋藤雄三さんが昭和39年(1964)に土地と建物を入手し、妻のトシさんとともに5年ほどをかけて念入りに家屋や庭園を整備した。齋藤夫妻は昭和44年(1969)に当時住んでいた文京区から転居。その後も、山登りをこよなく愛した雄三さんは、「人工的な庭ではなく、より自然に近い庭園」を理想に描きながら、庭園の手入れをトシさんとともに行った。

 

齋藤トシさん(平成10年8月撮影)の写真▲齋藤トシさん(平成10年8月撮影)

茅葺屋根は、カラスなどのいたずらで茅が抜かれてしまい、毎年「さしがや」と呼ばれる手入れが必要だった。茅葺屋根の家を好んでいたという雄三さんは、生前、近所に来ていた職人に頼み、「さしがや」を行っていたという。茅葺職人も減った現代では維持が大変だった。

雄三さんの死去にともない相続したトシさん(当時80)は、「この家と庭園を後々まで長く残してくれ」と雄三さんが言い残したこともあり、平成10年(1998)に家屋および庭園の保存と自身の居住を条件に松戸市に寄付した。そのトシさんも25年(2013)1月に亡くなられた。

旧齋藤邸の敷地内(約5500平方m)には、一部茅葺屋根の主屋、離れ、倉(竹紙工房)、物置がある。主屋の前庭には、梅、松、コブシ、芝庭が広がり、裏側は竹林が広がっている。また、南側道路に面し、生垣が植えられている。

 

旧齋藤邸の座敷、中の間、奥の写真▲旧齋藤邸の座敷、中の間、奥 旧齋藤邸の土間玄関の写真▲旧齋藤邸の土間玄関

主屋は、明治39年に建てられたものであることが棟札から判明しており、主屋の規模は桁行き7間×梁間4間半で、前面、左側面、背面に下屋がつき、茅葺屋根に瓦葺の式台付きの玄関が付いている。12畳半の居間を中心に5部屋があり、こげ茶色の重厚な板戸で各部屋が仕切られている。2本ある大黒柱は、約40センチ角で、今では見かけることがないほど立派なものだ。さらに、前面には広縁、左側面は、主屋の屋根を吹き降ろしている。

現地は東松戸駅から徒歩約10分の場所。近年開発が進む東松戸駅周辺だが、旧齋藤邸は市街化調整区域にあり、周辺は農村の面影を残している。

寄付後、市は主屋の改修を行うとともに、倉部分を竹紙工房として改修した。

平成12年度に、水上勉氏が主宰する「勘六山竹紙工房」の技術指導を受け、裏庭の竹を用いて竹紙づくりのノウハウを受け継ぎ、市民対象の講座で、竹紙づくり体験を実施している。竹紙づくりの指導には、遠方に住む水上氏に代わり、水上氏と親交のあった筑紫哲也氏が訪れたという。

現在は、市民を中心に、見学、貸出、竹紙漉(す)き体験など、社会教育の場として活用されている。通常は管理人が対応。竹紙漉き体験や見学については、松戸市社会教育課(電話 366・7462)まで、事前連絡が必要(平日午前10時から午後4時まで)。