松戸周辺の城跡を訪ねて(7)

水運を利用した大津川流域の城

 

手賀沼に流れ込む大津川の写真▲手賀沼に流れ込む大津川

今回は大津川流域にある殿山城、大井追花城、戸張城、戸張用替城、そして、大津川が流れ込む手賀沼畔にある箕輪城、箕輪如意寺城を訪ねた。

流域には以前に紹介した佐津間城(鎌ヶ谷市)、増尾城(柏市)、幸谷城(同)がある。いずれも流域低地に面した舌状台地の上にあるという同じ特徴を持っている。

大津川は鎌ヶ谷市くぬぎ山あたりに源流があり、柏市高柳、大津ヶ丘を経て、手賀沼に注ぎ込む。中世には大津川の水は城跡のある台地の麓(ふもと)まで来ていたというから、現在の景色とはずいぶん違って見えたことだろう。これだけ多くの城が大津川流域にあるということは、大津川の水運が軍事的に非常に大切だったということが考えられる。大津川は、手賀沼に注ぎ込み、手賀沼は利根川とつながっている。利根川の流れは古代から様々な変遷を経てきており、時代によって様相が異なるが、関東各地の流域とつながる大河であったことに変わりはない。戦国の武将たちにとっても利根川の水運は重要な意味を持っていたのだろう。

大津川流域の城地図

以前に紹介した佐津間城は住宅地の中にあり、台地上は開発されていたが、台地の麓に鎌ヶ谷市が建てた説明板があった。増尾城は城址公園として整備されている。幸谷城は市民団体が委託を受けて管理していた。しかし、今回紹介する6城には、そういった印(しるし)がなく、いつも参考にさせていただいている『東葛の中世城郭』(千野原靖方著・崙書房出版)を頼りに歩くしかなかった。

同書によると、今でも土塁や空堀などの城の遺構がわずかに残る城跡もありそうだが、私有地に入るわけにもいかず、確認はできなかった。同書の初版発行は2004年2月なので、その頃に比べてもさらに「開発」が進んだのかもしれない。

今回の城跡探訪は、大津川流域や手賀沼畔を歩きながら、舌状台地を見て往時の様子を想像するという、散歩道として考えていただきたい。特に手賀沼はサイクリングロードや歩道が整備されていて、これからの季節にはいいだろう。

 

殿山城があった大津ヶ丘団地付近の写真▲殿山城があった大津ヶ丘団地付近 大井追花城跡の台地(高圧線鉄塔の辺り)の写真▲大井追花城跡の台地(高圧線鉄塔の辺り)

柏市 殿山城

城跡のあった台地は公団大津ヶ丘団地として開発され、遺構は残されていない。『東葛飾郡誌』(大正12年に千葉県東葛飾郡教育会によってつくられた書物で、船橋市、市川市、浦安市、松戸市、流山市、柏市、野田市、関宿町、沼南町、我孫子市、鎌ヶ谷市の一部の大正時代までの住民の生活、歴史地理、産業、土地の状態、寺院神社、名所旧跡、組合などの組織、冠婚葬祭の習慣など図版や地図を使って詳しく記録している)には「殿山、塚崎にあり、塹濠、土堤等を繞(めぐ)らせり、里人は之れを大名屋敷の跡なりと云ふ、青石の板碑多く出づ」と書かれているという。

 

 

柏市 大井追花城

国道16号線沿いの浅間神社がある台地と柏霊園や日蓮宗長国山妙照寺のある台地に挟まれた舌状台地上にある。台地先端に高圧線鉄塔があり、その東側から南側一帯に土塁と空堀の跡があるそうだが、近づくことができなかった。台地上には農家と思われる古い民家などが立ち並ぶ。北側の斜面中段にも腰曲輪の形跡がうかがわれるという。ほかに南側台地の竹林内に土塁跡などがあるというが、場所を特定できなかった。城跡のある旧大井村は、室町時代は相馬氏の所領であったが、戦国時代には高城氏が進出してきたと考えられている。

 

戸張城跡の台地(文京区立柏学園)の写真▲戸張城跡の台地(文京区立柏学園) 戸張用替城跡の台地(大津川橋より撮影)の写真▲戸張用替城跡の台地(大津川橋より撮影)

柏市 戸張城

半島台地を利用した長さ約200メートル、幅約100メートルの長方形の形に城跡がある。土塁・空堀跡のほかに櫓台的遺構などがあったというが、現在は文京区立柏学園の校舎が建っており、中を確認することはできなかった。この台地には弥生式住居跡もあるという。

『東葛飾郡誌』には、「東南面一帯水面(大津川流域)に面し、北面又谷津田あり、標高二十米の突出丘陵にして現今土塁の形状僅に存して又空濠あれども甚深からず、一隅に石祠あり、石尊大権現と刻せり、里伝に云ふ、戸張弾正忠此に居れりと」と書かれているという。戸張弾正忠は相馬師常の子・戸張八郎行常の後裔と伝えられている。

 

 

 

 

 

 

戸張用替城跡のある台地にある戸張湧水の写真▲戸張用替城跡のある台地にある戸張湧水

柏市 戸張用替城

手賀沼に流入する大津川河口の低地帯を望む舌状台地上にあったと推定されている。台地の真ん中辺りに台地上に上る道があり、その道に入ってすぐ「戸張湧水」がある。

 

 

 

 

 

 

箕輪城跡の台地の写真▲箕輪城跡の台地 箕輪如意寺城跡(如意寺境内)の写真▲箕輪如意寺城跡(如意寺境内)

柏市 箕輪城

手賀大橋の西側、手賀沼を望む台地上にある。手賀沼病院建設や農地造成に伴い、発掘調査と測量調査が1981年、82年、86年に行われた。開発により遺構の西半分が失われ、東半分が山林中に残存しているという。城郭は東西約280メートル、南北約180メートルで、5つの郭から成っていたことが確認されたという。

西半分の遺構のあった場所には病院の建物や駐車場があり、遺構が残存するという東側の山林も見当はついたが、私有地のようなので入らなかった。手賀沼畔の案内板にも箕輪城の文字が見えたので、せめて碑でも建っているかと期待したが、見つけることはできなかった。

鎌倉時代、箕輪は相馬氏の所領だったという。『東葛飾郡誌』には「此城は小金領風早庄戸張郷戸張弾正の家臣高城伊勢守の守城なりと」と書かれているという。戦国時代には高城氏支配下の城だったと推定されるという。

 

 

柏市 箕輪如意寺城

県道8号線を挟んで箕輪城の反対側、手賀大橋の東側、手賀沼を望む台地上にある。城跡には真言宗豊山派如意寺と墓地がある。如意寺は平安時代の創建だという。戦国時代には高城氏の支配の下にあったと考えられるが、箕輪城の出城だったという説もあるという。

※参考文献=『東葛の中世城郭』(千野原靖方著・崙書房出版)